2018年6月30日土曜日

季節が来ましたね

季節で
「余裕」がある日の夏が一番好きで、
「余裕」がない日の夏が一番嫌いです。

カードづす。(挨拶)

夏ですね。夏は、寄り添いにいくと、その熱気が体にぬっとりと、じりじりと活力をくれて、いい季節ですね。
ひたすら下を向いて、つらい日は、夏の強度が、つらいですね。

夏を休む という風潮は、とても理にかなっていると思う。
夏は、余裕を持って過ごすことで、活力に満ちる時期だと思う。
ひたすら「ワーク」をこなさねばならない環境下である夏は、ひたすらにつらいだけだろう。

さて、先日書いた。
好きなんですよ、崎山蒼志(@soshiclub)くんが。
歌を歌う人、崎山蒼志くんが大好きなんですよ。

以前書いたやつ
http://katsu-revo.blogspot.com/2018/06/blog-post_8.html

本当に好きがあふれすぎて、再度書くことが憚られない

崎山くんの大きな特徴して、その「歌詞」の独創性が挙げられると思います。
当然、歌詞であると、我々が「通常で話す言語」とは大きく異なりますよね。
ただ、更に、既存のアーティスト等が紡ぐ言葉ともまた異なるような。

観念的で、無形なもの言語化して描くようなことがとても凄いという印象です。

自分が苦手なものがあって、「歌詞」を一言一句取り上げて、「意味を考察してみた」といったような類であり、
それは意味がないからやらなくて良いと思っています。
そういう考察の線上に思考があるアーティストもいると思っているので、絶対に無意味な行為ではないと思いますが、
崎山くんに於いては特に不要だと思うので自分は、それを行いません。

そういった、切り出しでの無味な考察に興じるわけではなく、
全体的な、崎山くんの歌詞の伝わり方や、革新性について思うところを書いてみようと思います。

崎山くんの歌詞のすごいところは、そのワードセンスや文脈が常人離れしている、という点だと思います。
普通の人間が考える「文脈」は連想ワード的な要素を多分に含んでいる。
豆腐 であれば、「白い」「冷たい」「柔らかい」「メンタル」など、連想から言葉をつないでいます。
ただ、崎山君は恐らくそのタイプの構成を逸脱していると思います。

自身がたくさん「連想」したり「捻ったり」することによって綴られるような歌詞ではなくて、
思考や気持ちが、特異なシナプスや回路に直結していて、素直に感情を紡ぐだけで「独自の言語野」から、
言葉がはじき出されるタイプというか。恐らく今まで触れてきた音楽媒体の経験に基づく面も大きいとは思います。

崎山くんにおける「ことば」に対する独創性は、その紡ぎ方や構成に拠る部分も大きなウェイトがある。
「温度や空気、質感や感情」といった、センシティブなパラメータ値が言葉のキー・トリガとなってはじき出されるようなイメージかもしれない。

バナナといったら黄色、ではなく、バナナがあったときの感情や経験、温度空気、質感が、独自の言葉の引き金になっているのかもしれない。
そういうような、独自な言葉のパズルが、「崎山くんにとっての」正鵠を射た物語としてプロットされていく。
それを外部である我々は音楽に乗せて心をゆすられていればいい。

音楽に乗せて、万人に言葉を伝えようと思った場合にやらなければならないマストが自然と理解されているような気がする。
「捉え方が広いことば」で、多くの人に届くような邁進をすればいい。自然とそのやり方が成されている。
それを「手法」としてやらず、「気持ち」や「やりたさ」や「自然」でやっているのが、心地いいのである。

また、特に好きなところとして、映像を見るごとに、いろんな歌い方だったりする点がとても好きである。
「また逢う日まで」を歌った尾崎紀世彦が語った「この曲は怪物だから」「未だ自分は歌いきれて居ない」と言うような話を思い出す。

歌が毎回、同様の音程である理由などない。
人間の感覚は毎日変わる。体調が優れなくて味覚が変わってしまう日だってある。
暑い日で耳が聞こえにくかったり、周りの環境がざわついていたりする日がある。

そうした感情の掌握のために、毎度歌い方は変化してもいい。歌は生き物だ。
自身の届けたい音楽や言葉がぶれないように、歌い方が流動する。それが自然に起きている。
多分、そういうことを思考でやる人はいない。
感情や、楽しいから、歌いたいから、そうしている。
人間は感情で生きている生き物だから。

それがとても気持ちがいい。歌い方が変わることは歌を伝えよう、感情を伝えようということなのだから。

本当に言語化するととてもシンプルな根源に立ち返るのだが、
「楽しいと思って歌っていることが」、我々に伝わり、「楽しくさせてくれるのだ」。

すべてを高いレベルで執り行い心酔させてくれる、すばらしい歌たちを供してくれる、15歳!?
わけがわからなくなってきたぞ。最高すぎる

お金をためて、見に行かなくちゃ、
絶対に見に行きたいから

つまり
絶対に見に行きたいから

カードです

絶対に街裏ぴんくを見るべき理由

どうも、カードです~

本日は、ライブを見に行ったのでレポです!(笑)

違った違った、こういうのをやめなければならない
浅い部分で人間をバカにしたような猿真似を・・・

カードくす(挨拶)

街裏ぴんく 第5回単独講演会 「武蔵野公会堂」を見ました。

もう、先般の感想等で書いていることもあった気がしましたが、自分はもう暫くの間、
お笑いは「街裏ぴんくだけでいい」と思えるくらい満ち足りています。
本当にありがとうという感謝と多幸しかなく、ライブ中もひたすら、
足りないお笑い栄養が脳にチューブで直接注入されているような充足感があった。

思ったのですが、各ネタに対して議論や考察を挟む余地すらなく、
ひたすら信頼して身を委ねるのが、一番よいだろうという結論に達しました。

-街裏ぴんくを見るべき理由-

街裏ぴんくは、知る限り、最も深い部分での笑いを供してくれるプレイヤーだからである。

街裏ぴんくを見るにあたり、超えなければならないハードルはまずは前提として以下。
・お笑いが好きである
・最低限の教養がある
・笑いに対して、柔軟である

上記の項目を満たしたり、満たしたつもりになれば、街裏ぴんくという土に没入することができる。

街裏ぴんくの笑いの根とはなんなのだろうか。今までに見た笑いで形容することができない。
そもそも、街裏ぴんくが出してくれる笑いのメニューが既存のお笑いをすべて調味料にしている。
既存のお笑いの形を象ったと思うときは、概ねが作中の小ボケでしかないことが多い。

大ボケというか、笑いの肝となる部分は多くが、彩られたストーリーの中核に触れたときや、
話中の人物からの、著しい揺さぶりがあったときが多い。
恐らく、笑いの種類を多く知っているほど、街裏ぴんくの供する笑いの特殊性に心が揺さぶられて、
とりとめもない心酔感を味わえることだと思える。

街裏ぴんくが話す際の笑いを受容するときに我々が必要なことは、「我を持たない」ことである。
街裏ぴんくの世界で、「次何が起こるだろう」という純粋な期待を持つ分には構わないが、
「こういう展開になるか」という期待を抱き、その展開が来た際に爆発的に笑う、という笑いの種類は
街裏ぴんくにおいてはほぼほぼない。

自身の「好きなお笑いの型」を「勝手な期待」にすると、没入とは別個の世界に迷い込んでしまう。
一度、話から気がそれて、世界がずれてしまったら、いつしか何を話しているかわからなくなってしまうような、
そんな特殊性のあるお笑いをやっている。漫談であることがフルで活用されている。

思うのですが、街裏ぴんくに最も近いコンテンツは何か?と言われたら、「催眠術」だと思う。

催眠術を与える際の前提条件には下記が挙げられる。
-------------
催眠術をする際に必要な前提(条件)とは何かという話です。

・被験者と術者で信頼関係が築けること

・環境がある程度出来ていること

・術者の服装と態度

・十分な説明が成されること
-------------

1. 被験者と術者で信頼関係が築けること
これは、お笑いコンテンツにおいては演者が最大限努力する部分ではないだろうか。
絶対に笑わないぞ、クソがと思って意気込んで来ている人は絶対に笑えないであろうからである。
そう思っていない人であっても、誰もが「絶対この人は笑わせてくれて~」と信頼ハードルガバガバで来るわけでない。
少しでもそのハードルを取りほどこうというのが演者の努力である。
単独ライブが跳ねやすいのは、そういうハードルが下がっている人々が、笑いに渇望してやってくるからだ。
そういう意味では、いい土台が築けているはずだ。

2. 環境がある程度出来ていること
先般で説明した心象的環境もそうだが、個別に席が用意されて、安全が保障され、
あとは楽しむのみ、という環境が用意されている。
また、「誰が出るのだろう」といった思考が別路線に振れるような介入は少なく、
ひたすら街裏ぴんくが紡ぐストーリーに目を、耳を傾けていれば、安寧が約束されている環境がある。

3. 術者の服装と態度
お笑いライブのような微細なコンテンツ、かつ高度なお笑いを好むような人々の性質上、
態度や服装などの、細やかな差異だけでも、何かの伏線であるかと勘繰るようなリスクを孕んでいる。
そのため、毎回丸坊主の巨体がスーツで出てくる、という視点の固定化が織り成す、見方のブレなさの効果は大きい。

4. 十分な説明が成されること
ここが一番凄いと思うところなのですが、異世界への投影、大移動が起こるわけなのですが、その際でも全く「視点がブレない」という安定感、バランス感覚がすさまじい。
絶対にストーリーテラーとしての街裏ぴんくだけではなく、「主人公」として、街裏ぴんくの"主観"が細かく語られることにより、「感覚共有」を逐次行い、世界の喪失が起こらないように配慮されている。
絶対に人間であれば「ここで違和感を感じるポイント」で笑いに転換し、不愉快な出来事であれば、「怒りや恫喝や慟哭」など、説得力を持った感情で訴求を行ってくれる。
ことごとく、物語についていけるように、という気遣いや話術や、無理やり引き込む技術等を駆使して、最大限に、物語、「ボケ」「お笑い」の深いところ、深いところまで連れて行ってくれる。
ここまでの用意をして深い部分で「お笑い」をやるので、そこに起こる不条理がすべて「正」となり、我々はそれを客観視して「笑うだけ」でよいという土壌が出来る。
「ラ」のマネージャーなど、普通に用意した笑いであそこまで大きな波には絶対になりません。
そこまでの入念な準備と、世界への没入を用意することにより、はじめて共有できる笑いの種類である。

先述した、"世界の喪失"、という所謂裏切りというのを、必ず「大オチ」に設定してくれるのも小気味良い。
そうしたことにより、築き上げてきた世界がふとガラガラと崩れ落ち、催眠状態が解け、心地よい喪失と共に物語の余韻に浸れるようになっている。"秀ちゃんの夢"の話など、特にそうである。
そこまで築き上げていた"街裏ぴんく"という像が「でも、僕はそれを 良しとしているんですよ」という言葉を持って瓦解し、
今まで覗かせていた姿が、人間の数多い面の1面にしか過ぎない、と知らされたところで、オチ、物語の終焉、現実が待っている。

それらを織り成す構成要素において、「話術」や「気遣い」における準備だけではなく、その中での「ボケ」のセンス、いわゆるナンセンスやギャップ要素による「高密度」な笑いが用意されているという点は大きい。
いくら用意して連れて来ても、そこに高いレベルの笑いが無ければ意味が無い。
そこを満たしているのも街裏ぴんくの強みだと思う。

また、よく思うのが、「街裏ぴんくの漫談が、生で見ると面白いのに、CDや映像ではいまひとつだ・・・」という点。
やはり、これは先述したとおり、催眠の一種であり、「その場の空気や空間、熱や温度、声、音響」すべてを共有した状態で、「そこにいる人に語りかけている」というコンテンツであるためであると考える。

なので、枠外からそれを眺めても、先ほどの「高度な笑い」を前提準備のない剥き出しで賞味することとなってしまう。
没入感がひたすら減衰しているだけの状態である。

とにかく、街裏ぴんくは、見るべきだし、生で見るべきです。
こんなコンテンツが継続的にライブを、独演会をやってくれる。
そんな幸せを、柔軟に、素直に傍受させてもらいたい。

ありがとうございます。

カーードです。

ファッションテーマ(カード)

よくリピられ性が高い夢、ありませんか?

カードです。

人によるのか、共通であるかが判断がつかない(カードは1人であるため)ことがあり、
よく見る夢で、再上映じゃんこれ!続き見れる!っていうことだったりするような、
場所だったりシチュエーションだったりするものが、ある程度同じ夢を見たりしませんか?

僕はそれが在るので在る前提で進めますが、よく見る夢の1つに荒野のガンマンがあるのですが、
それが、「ガンマンで在らせない」夢なんですよね。

銃を打ったりした経験もないし、銃を撃つ動画をしょぼいバイオハザードのポリゴンでしか見たことがないから、
再現ができないせいで、どうしてもガンを打てないんですよね。

銃のトリガがめちゃくちゃ重くて起動しなかったり、銃だと思っていたものが砂であったりする

ガンマンの夢はもうやめてくれ、爽快感がない

あんまり夢は見ないし覚えていないほうなのですが、ガンマンの夢と体育館の夢は特に覚えている気がする

夢を良化する術をアドバイスしてください。良貨は悪貨を駆逐する←すき

カードです。

人からテーマを貰って石版(ブログ)を書く方式を今日1度採用しました。

テーマ「ファッション」とのことです。
どういう期待があるのかということを考えてしまうよね

実際に生活観がほの見えるようなファッションについて聞きたいのか
ファッション史の考察が聞きたいのか
それともパッと刹那的な閃光で見た単語を教えてくれたのか

とりあえず、ファッションについて思っている感想を書こうかな

「有能」

と思います

ファッションという単語の捉え方として「トレンド」「流行」「おしゃれ」「服装」等の
ふんわりした理解だけあるのですが

"ファッションを掴んでいる" 人が「人間的異常」を以て危険や害を成す性質を持っているパターンが少ないというのが、個人的な感想で、
そこが指標値としてとても有能だと思います。

ファッションということばが「周囲への気遣いや見え方(見せ方)の考慮」という性質を多く包含しているため、
そこまで周囲に敏感な人が爆発的鬼キチガイであったパターンがほぼ少ないと思うわけです。

ファッションに関する怒りがあるとすれば、「何もファッションに考慮を挟まない人」が
「ファッションに考慮を挟んだ結果、その場においての異端的ファッションになった人」に対して、
小馬鹿にしたり笑いの種子だとしてイジりに来ることが信じられないというのが怒りです

自分は特に考慮していない側なので、線を踏み越えるまで人に口を挟まないように、とは思っていますが、
その検討もなく、線を踏み越えようという人がいるのは火山でしかない

ファッションも相互考慮の結果であるという話をしているが、だいたいのはなしに対して、
相手や周囲 を見出すという、周りを気にしすぎなんだろうか自分は

周りを気にするといえば、今回はブログテーマを以下のブログの書き手から賜りました。
いわゆるブログ同期(同時期にブログをはじめたとされている)なので、今後殴りあいながら生きていく

https://miyuky-u.hatenablog.com/
イタイタしいウルトラC - 東京みゆきーゆ
曲名っぽい書き方しましたが、思ったより曲名っぽくなって笑っちゃった

よしなに

2018年6月27日水曜日

いき

うなぎ、うなぎ

鰻は絶滅しそうだから、食べるのをやめましょう。お願いします

カードわす。(挨拶)

普通、絶滅が心配される「トキ」を食べている人がいたら
「ギョエーーーーーーーーーー!?!?!?!?!」となりませんか?
(ウナギとは絶滅のカテゴリが違うくて、トキのほうが希少なので完全な例えではありませんが、
 心意気の問題としての例えで)

普段から食用に転じている生物が絶滅の危惧に隣しているという時の実感が湧かないのか、
ふっつ~にウナギを食べまTVしてるのが「ソワソワ!!!!!」してしまうんですよね…

自分はウナギが苦手でいて、まあ、食べられるのですが、好物でござるよ~と語る種類のものではないので、
食べ物としてのウナギがなくなっても一切困らないというか、食堂に行って、全く食べたくもない日の、例えば、あんかけ焼きそばとかだった場合の、
「Aランチ終了でーーす!!!!!!あんかけ終わりでーーーす!!!!」と同じ感想しか無いような気がします。

ほーんそうか

でしかない

ただ!!!!!!!なんでかわからないのですが、生態の種が終わるとなると
「ソワソワ!!!!!!!!!!」してしまう
とにかくそれでしかない

なんで普通にウナギを食べたり獲ったりしているんだ
いや、別に確固たる理由があるわけではないので、「やめなさい!!!!!!!!!!!!」と言って
マスターハンドみたいなでかい手でつまみ出して「サバうまし星」でサバを食べてもらいたい
エゴでしかないので言えないのですけれど、絶滅を回避するために「食べないは最適!」となってくれれば、それを主張するのですが…。

何も中身が無く声がでかいだけなので人様を制限しようというだけとなってしまうので、
やめたらいいことがあるかどうかを探してきます

一説にはYRP野比に理由があると聞いたので、行ってくることとします

2018年6月26日火曜日

かつまたくにかず

ひたすら無為な日が多いわけで ここに何かを書くわけでもなく、
理由もなく今日がひたすら暑いだけで、それが無為であるという諦念感に包まれている。
暑いことに耐えているだけで殊更に偉い!!!!!!!!!!ということになればいいのに…
そうならないのはみんなが同様にそれに耐えているからであり、みんなからの差分を頑張って生み出してそれを書いて、無為をやめなければいけない。

無為であったことをひたすらに書くことは意味がないのだろうか?
そもそもこのブログは自由に放言する "河川敷のコンクリ壁" みたいなつもりで作っている。
何が書かれていても 気にしないだろう
河川敷のコンクリの壁にポップな感じでスプレーで Docter って書いてて面白かったことある

ますますカードです(挨拶)

前回書いた記事を、おお訓戒的と思って、「書いたよ!」の報告をしたのだけれども、
思った以上にいいわねぇ!ボタンがついて慄いてしまった
毎回あんな風な考察をすることばかりをすると思われたらかなん
かなわんをかなん という方言が好きなんだよ俺は
(しっかしその前の記事がマスメディアへの不安というキチガイがよく取りざたする案件で、タイミング最悪すぎるだろ、多分数人は見てしまっただろ)

ということで体裁として毎回の前提を言うと、
カード(人物)が「日々」をやり、ワ~と思ったことをつら書きする石板がこれ(ブログ)です。
なので、毎度"何か"があるというわけではないので、自由に見たいときだけ見てもらえればいいんです。
毎回、必読性という独自の基準(過去記事に示したことがある)をもって、この記事を読んでほしみを表しているので、
それをもとに読むかを検討して欲しいです。前回の記事は示すのを忘れましたが、★3.5 程度でしょうか。
今回は★1 くらいなので、暇ぃ(ひみ)が強い人が見る程度にしてもらいたい。
牛の肉の部位や内臓の部位の"名称を記憶する"くらい暇な人が見ればよい

なにが ギアラ だよ

カードさす(2挨拶)

あー何もない日は無為ぶりを書くしかない
無為を書くことに有為がないか確認をしないと無為がひたすら無為で
暑さに殴られただけの日だ
今日は暑い、30度を超える日は1年に5日と決まっていれば、特別感があってみんなはしゃぐだろうし、
その日のみ、開放される特別なプールがあれば、みんなそこに行きたがるだろうし楽しみポイントが稼げる。
楽しみポイントをたくさん集めるとシャンプーかリンスが貰える。
暑い日を単に過ごす際、反骨精神だけしかなく、無駄に長袖だけを着ている。
意味がわからないのだが、何かに勝とうとしているらしい。
無意識が行動を決定する要因になることが多々あることにふと今気づかされる。

暑い、と思いながら食事をする場所は近所に富士そばしか無く、富士そばしか無いということは、
"""""""""混んでいる"""""""""""""""

需要があるんだから富士そば以外も目をつけろよ、富士そばが勝ち続けている駅になって欲しくない

ということでコンビニに入りからあげ弁当を愛でて(購入 を 愛でる って呼ぶタイプのキチガイがいる可能性、あるよね)オフィスで食べることにした
あの兄ちゃんからあげしか食べない…気持ち悪いよと店長から評されることもなく、
毎日変わるバイトから購入をしたことで若干の安寧を得た。
ただ、このからあげの件が、日本人に落とした闇は甚大すぎると思う。
知っていますか?殺人犯の近所で聞き込みをしたら、弁当屋が、「あの兄ちゃんからあげしか食べない…気持ち悪いよ」と評したんですよ

知っている人らは、それを意識して、「特定されぬよう別のものを買わなければならない」という意識が刷り込まれ、
無駄に「ブリトー」や「カフェオッレ」などを買うことを強いられてしまう
今日も消費する

コンビニでは毎度のような特徴をたずさえた人間はあだ名がつく という都市伝説的な風潮もその恐怖に拍車をかけている
絶対に同じものを買わないぞ、という「コンビニの"売上傾向学"を無効化するモンスター」となって"消費者"をしている。

ただ、その同じものを買わないという方針も限界があるし、もし、「月曜パスタ、火曜カレー、水曜からあげ、木曜パン類」のような
パターンナイズされた購入カモフラをしていた場合、パターンを看過された場合の危険性がすごい。

毎回からあげだから、からあげ野郎等のシンプルネームではなく、創造性の幅をかなり広く持たせた状態であだ名の選択を与えてしまう。
ともすれば、店員のセンス如何ではどうとでもなってしまう。"行かない曜日"を見られて "無の金曜"と呼ばれてしまうかもしれないし、
"総合的に摂取できている栄養バランス" をイジラれて "ビタミンB1との決別"  と呼ばれてしまうかもしれない。

乱数表をもって、コンビニにいかないとならない。乱数できめないとならない。
しかし、乱数をもってコンビニで購入をした場合、過分なサイズのタイツやゴルフ雑誌やぬれおかき を購入することになり、それはそれで
「急遽発狂?」のメモが取られてしまうこと請け合いである。

もう、逆に、あえてあだ名を誘導してしまうのはどうだろうか。予約注文で、マイケルジャクソンの、「This is it.」を30枚予約すれば、
マイケル関連で呼ばれることが想像される。ただ、this で呼ばれるかもしれないし、it で呼ばれるかもしれない。it はやだな
それでスリラー と呼ばれたら一回コンビニを巻き込んでスリラーダンスを本気で撮影してバズってやるからな、覚悟をしておけ

コンビニで毎回ここまで考えている、本当にどうかしてしまう
今日も消耗する

外に出ると暑いし、更に暑い気がするので、一瞬の涼の貯金をすぐに吐き出してすぐにマイナス域に達してしまった。
継続的に激マズ荒廃薬を食べなければいけないときに、一瞬うまいカレーパン を食べたところで、
激マズ荒廃薬に戻ったときの辛さのほうが勝るというような理論をした。

毎日、移動をしている。毎日しているのだから感慨が消えており、いかに時間を忘却できるかという点に終始して精神を殺すが、あまりにも過敏すぎてそうならない。
人の乗り降りや、周りの環境に気が入ってしまい、時間を忘れることが無い。
鉄棒を設置して、懸垂をすることにより時間も過ぎるしダイエットもできるヘルシー車両を作れ

最近買ってよかったものの一つに「ワイヤレスイヤホン」があるのだが、それにより周りの音が気にならなくなったのがだいぶありがたい

「音に弱い」から

よく思うこととして、ファミレスや居酒屋などで、友人と3人で入ったとして、"会話"しますよね、普通、多くは

その会話時に、周りの音や声が気になって聞けていないときが、人に比べて多すぎる気がする。
本当に周りの会話だけウワーーーーーーーッと聞こえて、ボーーーー… ボゲェ… パエーーー…としているときが多いです。

この現象に共感してくれる人、"対決" しませんか?どの程度周りが気になるのか選手権じゃい
ファミレスで普通に会話しながら周囲の会話をより多く聞けていたほうが勝ちである

"対決" で思ったが、人と本気で、本当の本気で、勝つ!!!!!!!!!!気で戦ったことってないな
勝てない、ということが前提にあり、勝てないことに慣れているし、もし勝ってしまった場合、"負ける"人がいるというのが"勝負"の欠点だ
勝負 を作った人は下手すぎる
勝ち と 負け の表裏を一体にすることで勝った人石の下には負けた人虫であるみたいな関係性を自動で作ってしまった。
なんだこれ意味不明、下手、カス、石板(ブログ)やめろ

あと、ピンチの裏にはチャンスありみたいな適当な言葉で、"名言感" 出して状況煙に巻くの、やめない?
「ピンチ」という性質に「チャンス」が付いて回るかはその問題の性質次第で、100%そうだとは言えないだろ
日常的に「チャンス」は内在しており、それを表面的に考慮しないだけだっつーの(理知のジャイアン)

移動が終わり、食事も終わったので、人間活動としての1日は終わった。
あとはお金活動だけして終わりです。

あざっした

この形式のブログ、"今日"はいいけど"明日"はないな、毎日同じことを思うだけのbot だから

2018年6月25日月曜日

スーパーブログバター


暑すぎwwwww 松岡修造が帰国しただろwwww

ユーモアが終わった人を演ずることをユーモアとしていたら、いつしか本当に "そうなっていました"

終わりだ

カードゆす。(挨拶)

よく趣味をやめてしまうのだけれど、つらつらと終わった趣味を書いていく。

1. ピアノ
1ヵ月くらい。異常なまでに弾けなかったのでやめてしまった。何からはじめればいいかわからなかった

2. ギター
半年くらい。ある程度弾けるようにはなったけど、「結局何になるんだい!!!!!!!!!!」
とワシの中の魔女がウケるツッコミを入れた瞬間に終わってしまった

3. リコーダー
全然やってないけど、普通に知ってる曲なら探し探しで吹ける。
ただ、音がうるさすぎて家でできないから、全然できていない、やりたい

4. ハーモニカ
意味がわからなかったのでやめてしまった

5. サックス(デジタル)
リコーダーと同様にある程度吹けたけど、「結局何になるんだい!!!!!!!!!!」
とワシの中の魔女がウケるツッコミを入れた瞬間に終わってしまった
あとなんかすぐに壊れた
保証期間が1年なんだけど1年と2日目に壊れた

6. ポーカー(テキサスホールデム)
よく、ポーカー場に行っていたんですが、弱いハンドで強いハンドに勝ったときに、
「うわ~ないわ~これだから初心者は」とか、「こんなハンドで残ってるの意味わかんね~よw」
とかを見ず知らずのやつに言われ続け、そのあともアクションごとにでかい声で威圧されたりして、
本当に嫌になってやめてしまった。
おもしろいゲームなのに、こんなつまらないことでやめたくなかったよ

7. ボードゲーム
外のボードゲーム会で、他人のことを考えずに横柄な人が多すぎて、とてもイヤになり
やめてしまった。なんでこういうことが多いのだろう。
最近、知り合いのつてで、いい人と知り合えてボドゲをする機会が増加している。
復活できてありがたいこと。本当にありがたい

8. あと人狼
自分の交渉力や説得力が低いせいですぐに吊られて終わってしまう
とりあえずこいつを吊ろうみたいな流れが定着してつらくてやめてしまった
あと、毎回、ゲーム内での推理要素を多分に考慮して頑張って主張しても、
「この人、毎回怪しいよね」とか、「前回もそういってたよね」という
メタ推理、別にこれ自体はそこまで悪いとは思いませんが、
それを""毎回のように刷り込みのようにされ続けた""というのが辛くなってやめてしまった
ゲーム的に、毎回理論がリセットされて、フラットなゲームが担保されないのがつらすぎた

自己的に行う趣味はモチベーションが続かずやめてしまい、
他者が関連する趣味は、他者と適合できずやめてしまう。

こういうとき、自分ができることって、自己に対する悔恨しかなくって、
自分が悪いんだ…だからこういう趣味が続かないんだ…と思うしかないんですよね。自分は。
多分客観的に見て、最後の3つは、哀れ事故というか、その人が悪いという見方ができなくはないと思うのですが、
自分の性質からして、こういうとき、「他人と適合できなかった自分が悪い」と考えて、
ぐるぐると考えて、もう嫌になって、自分をそれ以上変革するのは無理です…となって趣味をやめてしまう。
ヤメ趣味だけどんどんと連なっていく。連なって山となって終わり飯となって無理やりチャーハンになってしまう。

本当は他者を否定したい。何で侵害しかねないところまで攻撃するようなことをしてしまうのか。と。
詰め寄りたい。
しかし、そうしたら、自分も相手と同じになってしまう。自分も相手を侵害しかねないところまで出張してしまう。
できない。
他者のためを思って、押し留まるしかない。

この世は本当に声が大きい人が得するようにできている、と、なんでも言ってしまうとかなり語弊がありあまり使いたくない言葉だが、
このパターンに至っては本当にそうだ。

楽しいことを他者によって楽しくなくされてしまうのはつらすぎるだろ

なんでみんなとこんなに迎合できないんだろう

他者と適合するために何かをやっているといっても過言ではないのに
他の人が競技的になってしまって、考え方が攻撃的になってしまうことがあるのがつらすぎる

MTG、カードゲームのMTG、マジックとかギャザっていうんですかね、やったことはないのですけど、
その中の通説というか、理論ですっごい好きなのがあって、

Timmy, Johnny, and Spike

という考え方です。

これは、引用しますと

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マジックをプレイする動機を理解し、カード開発の助けにするため作られたもので、
「何を求めてゲームをプレイするか?」「どんなカードを好むか?」によってプレイヤーを
分類しようというものである。ステレオタイプな人物に仮託して説明する場合が多いが、
本来はマジックプレイヤーが持つ多彩な動機を分類し説明しようというものであり、
実際のプレイヤーが必ずどれか1種に当てはまるというものではない。
よってティミー/ジョニーといった風に組み合わせて傾向を説明することや、
平時はティミーでないプレイヤーが極めて興奮を誘う局面に出会ったその瞬間だけ
ティミー的な楽しさに心を奪われるということも、自然にあることである。
-------------

ということです。つまり、「何を求めて、趣味を行うか」という根源を問うような考え方です。
こういう考え方をよく考慮して互いに存在を認識して配慮することで共存がしやすくなる。

そういう考慮をせずに、ただ他を認容できないような人は、もう少し慎重になってほしい。

じゃあ、この考え方で、どういうタイプがあるのか?同じく引の用をするが

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ティミー/タミー(Timmy/Tammy)
 マジックに楽しい体験を求めるプレイヤー。
 何かを達成することではなく、プレイそのものから得られる興奮や快感を求めていて、
 分かりやすく派手な能力・効果を持ったカードを好む。ティミーはプレイの目的を設定する必要がない。
 ティミーにとってはプレイの瞬間に得られる体験そのものが目的なのだ。
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さらに、このティミーは更に細分化されています。

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「パワー・ゲーマー/Power Gamers」
    巨大なクリーチャーや派手な呪文で対戦相手をぶちのめしたい。ステレオタイプなティミー。
「ソーシャル・ゲーマー/Social Gamers」
    親しい友人と一緒に遊びたい。多人数戦やハウスルールも好んで使う。
「ダイバーシティ・ゲーマー/Diversity Gamers」
    未体験のゲームを体験したい。新しいデッキ、新しいセット、新しいフォーマットを次々と求める。
    ジョニーと異なりこの動機は単に「やったことがないことは楽しい」という思いからくる。
「アドレナリン・ゲーマー/Adrenalin Gamers」
    予測を裏切るゲームがしたい。コイン投げや今引きに左右されるゲームを好む。
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大きく分けて、一般的な用語に落とし込むとすると、エンジョイ勢というような言葉が近いでしょうか。
趣味をやることにおいて、勝敗をまず前提とせず、「楽しみ」が根幹となっています。

大喜利とかだと、自分はこういうタイプの側面も多分にあるのですが、そういう人が
いま肩身がせまくありませんか?それも辛いんですけど(議員「うっせ~ハゲたカード」議員「早く結婚したほうがいいんじゃないか?」)
あとは、自分はボードゲームやポーカーでもこのタイプに分類されると自己分析しています。

先ほど、「1. ティミー」という種類を見ました。続いての区分としては以下です。
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ジョニー/ジェニー(Johnny/Jenny)
 マジックで自己表現をしようとする創造力あふれるプレイヤー。
 新しいデッキやコンボを自分で創造しそれを披露することを求めていて、
 変わったコンボを作れるカードや用途の広いカード、逆に有効に利用することが
 非常に困難なカードを好む。ジョニーにとってマジックが持つゲームとしての
 自由度の高さが何より重要となる。それが自らの個性を表現する道具になるからだ。
 最も構築との結び付きが強いプレイヤーと言えるが、必ずしも構築でなければ
 ジョニー的なプレイができないということではない。リミテッドにおいても
 新しいコンボを披露することは可能だし、プレイスタイルそのもので斬新さを
 見せつけられればそれもジョニーなのだ。
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また、これもサブカテゴリがあります。

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「コンボ・プレイヤー/Combo Players」
    新しいコンボを発見して、それを皆に見せたい。ステレオタイプなジョニー。
「オフビート・デザイナー/Offbeat Designers」
    例えば土地単など、突飛な発想に基づくデッキを構築したい。
    コンボ・プレイヤーが隠されたコンボを探す探検家ならば、こちらは発明家だといえる。
「デッキ・アーティスト/Deck Artists」
    例えばエルフの文化を体現したデッキや、ストーリーを再現したデッキなど、
    構築方法そのものが創造的なデッキを作りたい。
「ユーバー・ジョニー/Uber Johnnies」
    非常識なこと、他の誰もやらなかったことを実現することで個性を示したい。
    空虚自身/One with Nothingのようなカスレア、紙を実戦の場に引き上げることなどが筆頭である。
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あっこれは大喜利での僕ですね、ティニーの一面もあるけど、こっちの面のほうが大きいかもしれない
…という感じで、区分はされていますが、必ず一つの特性にあてはまるわけではなくて、
複数のカテゴリを持つのもこの分類の特徴であるわけです。

特に、特に新しいことをやって「おほ^~」と思われたいという特性がある人は多くいると思いますし、
僕自身もそういう人が好きです。それ以外が嫌いというわけではなく、このジェニーの特性を持っている人が
無条件に特に好きという話です。
こういうプレイスタイルと現状の「しがみ文化」や「競技的面」とは迎合しにくい部分があるため、
特につらいという感想があります。好きにやらせてくれ

ボードゲームやポーカーでは、こういう側面は自分は小さいですね。
一番ティミー的な特性を持っていて、ステレオタイプにエンジョイコンテンツを消費したいですね。

「1. ティミー」「2. ジェニー」を見ましたね。次を見ますか?見ることを出来ることがある
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スパイク(Spike)
 マジックに困難な挑戦を求めるプレイヤー。大抵はトーナメント志向である。
 勝つこととそれによって自分の能力を証明することを求めていて、カードパワーの高いカードや、
 より高いプレイングスキルが求められるカードを好む。ゲームの本質が取り組みがいのある課題を
 提示することにあるならば、スパイクこそがその達成に正面から取り組んでいるゲーマーだといえる。
 ティミーで言ったことと鏡写しになるが、トーナメントプレイヤーの多くがスパイクであるからといって、
 大会に参加しないカジュアルプレイヤーの中にスパイクがいないということにはならない。
 より強い相手との、より多くのゲームに勝利することが最も一般的なスパイクの目標になるが、
 自らの能力を示せるならば勝利以外の要素もスパイクの目標になりうる。
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これも細分されるみたいです。

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「イノベイター/Innovators」
   誰よりも早く「壊れたカード」を発見し、次のメタゲームを支配するデッキを生み出すことを目指す。
   発表当時のタルモゴイフ/Tarmogoyfのように、容易には強さを見抜けないパワーカードが
   まさに彼ら向けのカードといえる。デッキビルダーとしてジョニーと違うのは、イノベイターは
   一番乗りを目指すのに対し、ジョニーは新奇さや個性を求めていること。
「チューナー/Tuners」
   いわゆるデッキチューナー。既知のデッキをパーツ選択や枚数調整によって最適化し、
   誰よりも完成されたデッキを目指す。
「アナリスト/Analyst」
   メタゲームに注目し、仮想敵となるデッキを洗い出すことで、その環境で最適のデッキを
   見つけることを目指す。特にサイドボード戦略に注力する事が多い。
「ナッツ・アンド・ボルト/Nuts & Bolts」
   プレイングを磨き、ミスを極力無くすことで他プレイヤーと差をつけることを目指す。
   リミテッドを得意とするプレイヤーが多い。
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この特性が、大喜利やボードゲームにおいて、自分には一切無い
だからといって、それ以外の人を許容できないわけではなく、そういう特性の人もいるだろうと思っています。
ただ、相反するからといって、こちらを攻撃したり受容をサボることをしないで欲しい

こういう楽しみ方をする場合、「同じ楽しみ方をする人がいる」という前提で趣味が成立するわけです。
「違う楽しみ方をする人」に同じ楽しみ方を押し付けてべき論を展開したら終わりですよ

つまり!!!!!!!!!!!
「人々はそれぞれ色んな特性を持ったうえで"趣味"をやる」
「各自が同じ特性をもっている際に楽しく"趣味"が成立する」

ということなので、同じ特性を持った人で楽しくあそぼうも然りなのですが、
各・別の特性を持った同士も、双方の主張を考慮した上で、共有した上であそぼうね、という話です

いいですか?

コンゴトモ ヨロシク…

いや、メガテンの悪魔の去り方すな~~~~~~~~~~っ!!!!!!!!!!

厚切りジェイソンが以上と言ってくれ~ ブログは以上だから

ヤメリ

この記事はマジで読まないで欲しいです

カードごす(挨拶)

よく、「テレビは偏向的な報道をしている」と聞く。自分もそう思う。

"報道" という性質上、一方的な取り上げ方しか出来ない場合は仕方ない。

Aさんが、「とあるBさんの絵」を Aさん「取るに足らない駄作だ。児戯に等しい」と批判したとしましょう。
これを、メディア「絵の神 Aさんが重大な発言!!!!!Bさんはオワコン化か」と取りざたしたとしましょう。

メディア「Bさん!どうなんですか!意見をお願いします!」と聞いたとして、

Bさん「そんな意見は言わせておけばいい。何とも思わないよ。自分は自分だから」と言ったとしましょう。

メディア「Bさんはそういう意見でした。いや~何も言わないなんてクソザコナメクジですね」と言ったとしましょう。

これは、両者の意見が出そろい、それを報じた上で論調を決めています。
多少どちらかに肩入れがあったとしても、それはまだ公正だと認めましょう。

上記の例で、Bさんが、「許せん!!!!!Aは絵の神でも何でもない!絵を評価できるのか?」と言ったとしましょう。
それなのに、メディアはそれを、Bさんの意見を報じず、引き続き「いや~Aさんがこう言ってても、まだのうのうとBさんは絵を描き続けています。」などと報じたら、やばいですよね。

僕の感覚や主観的な見方で言うと、そういう出来事が、いま普通にテレビやメディアで、起きています。

それがやばいし、おかしいよなぁとは思うんですけど、それを周りに共感を得ようとしたり、釈明してみようとしたところで、
周りマン「え、そうなん?じゃあなんでそんなことするの?」と聞かれ、

カード「いや・・・・それはわからないけど・・・・」

となったら、

周りマン「そんなことするわけないよ。考えすぎだよ。異常論者現実見ろよ。きもいおしぼりで涙拭くか?」

となってしまいます。

でも、一方的な報道は厳然と存在し、その理由も「巨悪があるから」という想像の域を出ないことしか言えません。
この状況を納得せしめるだけの論証もないし、推察の域を出ないのですが、明らかな偏重がある以上、
「メディアの言うことを妄信的に聞くな。事実として存在する国会の議事録や、議員のブログなど、信用できる情報を読もう。」
「また、信用できる、事実を羅列してくれる人を知っておいて、その人の言うことを読んでおこう。」
「ひとつの情報源に偏りすぎず、色んな情報収集のすべを持っておこう。」
といった啓蒙があります。

しかし、そういった信用を覆しかねない、「財務省の文書改ざん」問題は許しがたいですね。
公的な文書すら、疑ってかからないとなったら、我々はひとつの指針を失います。
ひたすら、猜疑的になり、国家に対する信頼もあったものじゃなくなってしまいます。

ただ、まだそこまで行くほどではない、と僕が思っているのは、今回の改ざんされた文書の範囲が、
「文書の性質や問題の根底を覆すほどの改ざんではない」という点です。
たとえば、本当は議事の結果、「案1で行こう!」と決まっていたのに、議事録上、「案2で行く」と書いてあり、
「会議ではずっと案2で決まっていました!」と言い出したら、それは本当に情報の信頼性を覆してしまう重大な重篤な極めて危険な改ざんです。

しかし、今回はそこまで至っていません。誤解を招きかねない、もしくは、目ざとくその表現を槍玉に挙げられたら、
その文書を取りざたされて、更に追及される一因となりかねない。そういった点を削った、という性質の改ざんであると捉えているからです。

これは、財務省の怠慢であり、姿勢としても在り方としてもあってはいけないことなので、今後の再発を絶対にしないよう、文書を管理するシステムを設けて欲しいですね。
文書内容の公開の際、野党や第三者の関係者が即座に議事等の内容をすり合わせの上、チェックを挟むシステムにできないんですかね?
そこは相互的に情報の信頼性を上げる取り組みがあってもよいと思うんです。
本来、与党・野党の在り方って、単に国を発展・保守・保全・運営・革新等すべて含めて、良いほう、より良いほうに進める、という意義が強いのです。
そういった、部分だけでも、手を取り合って、「今後国から発信する情報は信頼できるものにします!野党も大手を振って協力します!」と言えないものですかね?
財務省だけの責を追求し、辞任をひたすらに求めるだけでは何の発展性もないんだと思うんですけど…。

という、「情報の信頼性」についての検討はそれまでにしておいて、

「公的な情報等を収集できるようにしよう」という、"情報の発信源"への考え方、
また「情報の受け取り方や理解のために、信頼できる人を作ろう」という、"情報の理解"への考え方、
「誤った情報を周りに拡散しないように、自身の中での理解を深める」という、"情報の氾濫・雑多化"への考え方。

しっかりと、みんな、真っ向から情報に立ち向かえばいいんです。
政治的なことはあまり詳しくないけれど、しっかりと「どちらがより物事の本質を見据えて行動しているのか」という考慮をすれば、
おのずと良い方向性は見えてきます。

そして、今ある「問題」の根幹は何なのか。という、問題の本質を考えることも大切です。
最初の例で言うと、「なんでAさんは、Bさんの絵を批判しているのか?」という点を考えると、わかりやすいですね。
両者の意見を聞くことで、漫然的に意見を流動させるのではなく、まず、「何を以て批判しているのか」という点。
1. 他を冒涜するような表現があり、人の侵害等を考慮しない乱暴な絵を書いていて、児戯に等しいとAさんが言っているのか?
2. 表現に円熟性がないと捉え、まだこの人の絵を認めるべきではない。業界の発展性のために、Aさんが批判しているのか?
3. 単に、個人的な感想や、恣意的な思いで、AさんがBさんの絵をこき下ろそうとしているのか?

という見え方が変わるだけで、問題の本質が変わるでしょう。
そういった考慮をしっかりと成さずに、意見が散文的になることがよく見受けられます。
慈愛や許容を持つだけで、問題の本質を見ることができます。ぜひ試してみてください(は?)

こういうことを論じることが恥ずかしいとか、普通じゃないというか異端であるような風になる風潮、とても怖い

こういう風に人々が、「情報に対する自衛」が出来るようになると、世の中はもっとよい方向に向かうと思うのですけれどね…。

あーーーーハズカシリ

2018年6月21日木曜日

必読性の話をちゃんと書いています

タコ2貫!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

カードねす(挨拶)

独自に必読性、という概念を作っています
これは、毎回ブログを書いた際に、毎度同様の熱量で
「書きました。面白いから見てください」と言っても、
そんな毎回 Great を提供できているわけではないのは自覚しているので、
ちゃんと見て欲しいときだけを見てもらえるよう、「必読性」というパラメータで表しています。

カード的カードブログでの基準としてはこんな感じです。

必読性☆☆☆☆★(★1): 特に読まなくてもいいけれども、みんなに「書いたよ~」と報告は
できるレベルの出来栄え。でも特に「ここを読んでほしい」というポイントがあるわけではないので、気が向いたら読んで欲しい程度。

必読性☆☆☆★★(★2): 特に読まなくてもいいけれども、少し「ここはみんなどうなの?」って気になったりとかしていたり、
人のための有用性があるかなと思われるもの。

必読性☆☆★★★(★3): 少し読んで欲しいことや問題提起があったり注意喚起があったり、
多くのための、少し有用な情報を書いたつもりになっているようなもの。

必読性☆★★★★(★4): 読んで欲しいことを書いている。何か性急な問題や機微な問題があり、
それに対してのリアクションや、他に影響せしめることを記入しているもの。
もしくは、異常に有用性があることを書いたつもりになっているもの。
また、個人での何か発信したい"お知らせ"がある場合など。→有償のものを出したりする場合

必読性★★★★★(★5): 全体に万物に読んで欲しいことを書いている。
何か性急な問題や機微な問題があり、それに対しての解決提起や、変事の渦中に自身がいた場合に、
何かのコメントなどを記入しているもの。

というイメージで書いています。カードが、カードブログを色々書いていて、
必読性1 の壁を越えられず、「ブログを書きました!!!!!!!」と言えないことが
多々あるのですが、「尋常ならざる興味や暇」等に近い人は、辿りつつ読んでもらえたりすると嬉しいですね。

ただ、性質上「思ったことを無責任に放言したり乱雑に書き留めているもの」という部分が多く、
読みぐるしい点等はご容赦いただければと思います。


もう書くことがあるかは不明ですけれども







行って
くだちい

何ちょ

何がしがみじゃ!きもいんじゃ!
刹那的な笑いを供しただけなことを振り返って賞味すな!
そこまでのことじゃないやろ!
もっと、なんというかこう、生い立ち、というかなんというか、
「〇〇さんは何県の生まれで、もともとおばあちゃんっ子だったという境遇から、
落ち着いた観点が育まれ、そういったバックボーンから繰り出された笑いの類が
温かみ、ぬくもりがあって良かったです」とか言わんかい!!

人(にん)を褒めんかい!!それに属しない場合は、人(にん)が褒められるように研鑽せんかい!!

カードばうす。(挨拶)

おならモンスターコレクションというやつを考えました。
おならをするときに、色んな音やパターンがあると思うので、それをモンスター化して、
カード化してゲームにしてバトルしたりできるというやつです。
そのおならをしたらモンスターをゲットできる、というやつです。

(レアリティ:★ 肛門(コモン))
ブッ!(単純な破裂音。ブザーを単押ししてすぐ離した際の音)
プゥ↑(軽い笛の音。ポムポムプリン的な生物の疑問形の鳴き声)

(レアリティ:★★ うん肛門(アンコモン))
バン!(激烈な破裂音。重要な会議中の静謐なドアを勢いよく開けたときの音)
ポンポン…(連続的な空気玉。蒸気船の推進のような音、小さい僧侶5人が連続で小さい鼓を叩いている音)
パッ!(極めて短いガスの通過音。催眠術にかけられて、3,2,1 のあとに叩く手の音)

(レアリティ:★★★ あれ?(レア))
バリ!!!(ジーンズやジャケットが張り裂ける音、未開封のせんべい群の袋を誤って踏んだときの音)
ゥヨ(ぷよぷよを積んだときの音、ボンバーマンが爆弾を置いたときの音)
サッス~(めちゃくちゃトラブル続きの夜勤明けのヤンキーの退勤のあいさつの音)

(レアリティ:★★★★ スーパーあれ?(スーパーレア))
パカ!(でかい貝が置いた時の音、人語を理解する馬の挨拶)
ブンバン!(巨人の国の巨人の放屁音、0.1倍速しているインターホンのピンポン音)
ピー…(心電図が終わる音、ヘリコプターのそばから離れたあとの耳鳴り)

(レアリティ:★★★★★ 紙?あれ?(神レア))
ハハハハw(海外男性の軽いウケのときの音)
キャーーー!!(ジャスティンビーバーを見た女性の音、ドラマの事故の回想シーンのブレーキ音)
何で?(俺も何で?と聞き返すくらい明確な何で)

という感じで考えてみたわけどす
かなりネタ切れになりましたが、ゲームになりませんかなりませんね死

"金塊" でも "インゴット" でも「うんこ」感が強いの、奇跡の言葉じゃありませんか?

本当にさようなら

あいねん

悪夢すぎる悪夢を見たんだけれど
「おぼれるくん」という言葉がとにかくおもしろくて
無限に笑い続ける夢を見て、呼吸が苦しすぎるのだけれど無限に笑うのでひたすらつらくて、
自分の笑い声がだんだん大きいボリュームで聞こえてきて、うるさい!!!!!苦しい!!!!!!と
なるのだけれど、無限に笑い続けるという悪夢でした…。

おぼれるくんで笑い死ぬ人生じゃなくてよかったな本当

衰えた松っちゃん「おぼれるくんでおぼれるとこやったんや」
カード「うるせえ!!!!!!!!夏が移動するぞ!!!!!!!」

カードすす(挨拶)

面白いと思う人や、面白いと思う芸人さんが数多くおれど、
畏敬の念を持って、信奉する「この人は凄い」と思っているのは、
たったひとりしかいません。誰あろう「小籔千豊」です。

こんなに売れていて、それでいて確とした軸があり、他を説得するに足る理念がある。
怒りの沸点が低い人なので、よく怒ったりした話をするのを見るのですが、
めちゃくちゃずれた視点になったり、物事の本質を誤解したりして怒っているところを全く見たことがない。

何故この出来事が起こり、それを取り巻く人物がどういう状態で存在するか、という物事の関係性をすべて瞬時に判断し、
コメントしたり怒ったりする瞬発力と回転力がある。

仏学や政治学に始まる「見識に基づいた理論」も好きだし、そのバックボーン等から時折除かされる、
いわゆる一般的な呼び方で言う「スピリチュアル的」面も好きである。

というか、そういった無形的な理念をしっかりと息づいた理論として展開できるのがすごい良いし
そういうスピリチュアル的な話は かなりの面で「存在いたす」と思っているので、共感 であり信奉である。
それと、議論の際など、かなり相手の論を聞いた上で、「討論」をできる人であるのが好きすぎる。
持論の押しつけではなく、相手の反駁を聞いた上で、「持論の在り方」と相手の主張の穴や、
不考慮をおしなべて説得する話ができるので、とてもすごいしすばらしい。(褒め語彙が弱い)

また、「橋下徹」も尊敬している。
なんというか、しっかりと物事を筋を通して考えられて行動できる人が好きすぎるんですよ。

「国」を憂いて「国」を良くするために働くっていう、政界人として、当然と思うことを
「本当にやっていた」ことがすごすぎる。というか、政治の人で、「国を良くするために働く」という
ポーズだけして、そうは見えないような人が多すぎる

カードは、常に国を案じていて、そして「国の未来」、「人々の将来」が心配すぎる
急速に変遷していく社会のシステムや枠組み、技術などに呼応できるほどスピーディーな
政治や法のシステムがないのが心配だ

常にしっかりと「正しい」と思われる"べき論"を考慮するための、
最新技術に対して国が適応するための、「頭脳機関」がどこにも存在しないであろうことが不安すぎる

そして、新しい世代に対して「電子機器との付き合い方」や「技術との向き合い方」や
「勉強との距離感」などをしっかりと、現在の状況を鑑みて教育に組み込めるシステムがないのが不安すぎる

ヒャダインも言っていたけど「答えだけ知っていてもそれはダメダメダメダメダメ でもなんで寄り道しなきゃいけないの」
検索すれば答えが出る問答について考慮する必要性、その場その場で変動する流動的なものに対して、
「どう教えるか」「どう付き合っていくか」、そういうことを考え、教えていくのが我々の義務ではないでしょうか?

こういう、「愛国的な論」や「次世代のための論」や「政治的な論」等を言うと、
"変" というスタンプが押される潮流、なんとかやめませんか?

みんなで発展性のある検討や議論をカジュアルに、夕飯のおかずぐらいに話せる土壌ができたらいいな、とは思うんですけどね。

自己愛で他を当惑させている場合じゃないんだよ本当
奉仕的精神をもって初めて自己愛できる自分を作ってくれよ
そんなところで横柄であったらおしまいだよ

国を、国を、今後を、未来を、なんとかしようよ

[政治家 なりかた] で検索したけどわけがわからない

単にならしておくれ

2018年6月14日木曜日

ハパネス23

怒涛の2連続更をしてもった(1時間くらいしか経っていない)
「は?」と思われたりするのが怖いのでTwitterに書いたよを爆撃できない
おくすりのめたねみたいに おぶろぐかけたね を売ってくれ

横山光輝の三国志(60巻全)が好きで、よく読むをする過去があった。
もう手元になく、よく読まない現在がある。

日経新聞がそれを利用したユーモア0の広告を出しているが、イマこの世で1番くらいに憎い
妙に台詞を改変してある漫画のコマを「穴埋めお題」としているやつも憎い

感情の藁人形


カードいす(挨拶)

横山光輝の三国志(以下、横光三)のシーンで好きなのがあって、
三国志というのは簡単に言うと、3つの国での争いの物語なんですよ。
そのそれぞれの国の偉い人が「劉備(りゅうび)」「曹操(そうそう)」「孫権(そんけん)」という
DQNネーム3人が争う語物(がたりもの)なのです。物(ごぶつ)のほうが語感がいい

その1シーンとして、
元々権力や勢力としても強く、上の立場にある「曹操」が、
まだ鳴かず飛ばずで周りには弱く見えている「劉備」と酒を酌み交わすシーンで、

曹操が
「しかし、この乱世の天下を取るに足る人物が2人いる…」と言い
劉備が
「ほう、しかし2人もおりましょうか」
曹操
「では、誰だと思われるか」
劉備
「そうですなあ…では、呂布などは」
曹操
「ふむ、あれはただの猛牛だ 天下を取るには値しない」
劉備
「さて難しいですな…」
曹操
「わからぬのか」
劉備
「ええ、私にはとても」

曹操
「君と、余だ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


というシーンがあって、ちょう好き!!!!!!!!!!!!!!!!!
台詞は手元にないので"URO"(うろ覚えのことに決まってる)なんですけど、ちょう好き
UROだが、最後の「君と余だ」というのは確実にあっている


ということで君と余だ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!というセリフを僕のきめ台詞にさせていただきます

ココスの店員「ご注文お決まりでしょうか」
カード「ふむ・・・決まったかどうかを知っている人物は限られておる」
ココ店「はぁ?」

カード「君と、余だ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

ちなみに、このセリフをいった後は雷が落ちるという構成になっている
つまり本当はこうなる

警察「はいーちょっと止まって~自転車暗くなってきたからライト付けてね」
カード「ふむ・・・・つける必要があるかどうかはさておき、これからライトをつけよう」
警察「うん、ライトつけてね危ないから。」
カード「しかし、今ライトを付けたが、ここで今ライトをつけた事実を知っているのはただ2人だけだ」
警察「は?」
カード「君と、余だ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
雷「ゴロゴロピシャーン!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

となるわけです

最近のおもしろ
・チェ というデザート 名前おもしろ

ということもあり、

しかるねこの世界で、しかるねこをつかさどるお師匠さま的ねこ ガミ神(がみがみ) 
というのを考えたら「ツイートにするにはギリ、本当にギリ落第!」ということもありました
 

つまりこのブログは ツイッターの2軍

ちなみに、昨日の記事からよく 新(あらた) と言う頻度があがっているのは、


ちはやふる を読んでいるから

です

いや、きっつ

嘘です

ありがとうございました

「混ぜ」のスロット

前、書いた。書いたら反響で糸が爆発して四散して嬉しかった

書いた報告を行う、をするだけでまさか14.5イイデスネ! をもらえるなんて思ってもみなかったので、
とても嬉しすぐる太 という本名の人

本当にありがとうございました!引き続きゆったりと続けます

耳のカードです。耳です。
カードという名前です。お願いします(挨拶)

矢が刺さっているかわいそうなカモのことを
矢がも と名付けた人は「ダメ」です。

この世に生み出される 新(あらた)、新(あらた)概念を、
名付ける総合的商社というか、総合的省庁でありたいのですが、ダメですか?

日本は 新を取り扱うのが下手すぎる。
歩きながらスマートフォンを行うことを

あ、歩きスマホって!!!!!!!!!!!!!バカじゃん

歩きながらスマートフォンを行うことを

な、ながらスマホって!!!!!!!!!!!!!!デカゴミじゃん

ひどい!!!!!!!!!!!!!!!!!
全般的にひどい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
網羅的に背反的に効率的にひどい!!!!!!!!!!!

ぴどい!!!!!!!!!!!!

海外では歩きスマホをこういうらしいが

Zombie Pedestrians(ゾンビ歩行者)

デキる!!!!!!!!!!!!!!!!!
こいつやりおる!!!!!!!!!!!!!!!!!!

正鵠を射て遠からず絵も浮かぶ!!!!!!!!!!名句のようだ


歩きスマホ、なんて言葉が「生きていて」市民権を得ている間は
この国の言語や文化の発展性は極めて微弱でユーモアリベラリティ(こんな言葉はないが、ユーモアみ)は
バカ低くなりおもしろくない蔓延国 という国名になってしまう。

「歩きスマホ」なんて言葉を生かして「歩かせる」んじゃないよ。
言葉の立場として 歩き 歩きスマホなんだよ。←どういうことだよ
まあつまり言葉として死に体にさせてやっていいんだよ

死にスマホ でいいだろこんなものは

それか

稚拙なぞうさん

とか

腰痛の神

とかでいいんだよ火野郎が(悪いものをすべて"火"とする。俺は動物だから)


あとね

「ゲーム脳」

すごい!!!!!!!!!!!ゲームを多く行うことにより引き起こされる弊害をわかりやすくまとめてくれましたか!!!!!!!!
モンバカ両津!!!!!!!!出直してこい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
こんな言葉で「バズ」の中心にいるな!!!!!!!!!!!!!!!!
その状態の「言語作成」において「トップ」を取るな!!!!!!!!!!!!
"アンケ" で "負ける" 選択肢だろ!!!!!!!!!!!!!!!!
負け択が一択で自動で決まるな!!!!!!!!!!!

仕方ない側面もあるかもしれないけど、医学的な用語としたい決定かもしれないし、
研究職において変な名前はつけられないかもしれなし

でもおい!!!!!!!!!ユーモアを小さじ1~1.5 加えるだけで少しは抵抗なく
「ワイはその状態かもしれないンゴゴゴゴゴゴw」と某ちゃんねるの患者たちがすぐに入局できるかもしれないだろ!!!!!!
常識で止まるな!!!!!!!!!!!!!!!!!
既知に勝て!!!!!!!!!!!!!!!!!
酢飯は踏め!!!!!!!!!!!!!!!!
無理を喰え!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
馬に引っ越せ!!!!!!!!!!!!!!!!!

ゲーム脳なんてもうあれでいいんだよ

残機0

とか



あっ!!!!!!!!!!!恥ずかしい!!!!!!!!!!!!
うまいことゲームにかけて症状的なバズワードをひねり出そうとしてそこまで
的を射抜けなかった感じ出ちゃって恥ずかしい!!!!!!!!!!!!!

的と言えば64ゼルダの流鏑馬 楽しすぎ問題 あるね
同様に64ゼルダの 牧場護衛イベント 怖すぎ問題あるね

そういうこともありつつ あと思うのが、よく

喧嘩(けんか)

みたいな言葉が

大 がついたり、中 がついたりすると

中喧嘩(ちゅうげんか)

みたいに濁るのが好きなんだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!俺は



餅 くらいこの現象が好き ちょう好き

これを連濁というらしい、習わなかったぞ、今までの学問の流れで
色々な法則はあるらしいが、小難しくて理解が追い付いていない。
色んな理論に基づいてこの連濁がやられており、豚ギムチ とはならないようになっているらしい。
俺は 豚ギムチ のほうが好きなんだけどなぁ~~~~~~っ!!!!!!!!!!!!
全部 連濁 アリにしようよ!!!!!!!!!
アリアリのマシマシの非不未無で!!!!!!!!!みたいな名前の人がいたという 過去

ガッポリ建設(ガッポリげんせつ)
おもれ~

ヤマダ電機(やまだで゛んき)
おもれ~

味噌ラ゛ーメン(みそら゛ーめん)
爆おもれ~

喧嘩俳句(けんかばいく)
おろ?楽しそう!!!!!!!!喧嘩俳句という、競技、そもそもあってよい!!!!!!!
ラップみたいに俳句でバトル、つまり競技俳句(きょうぎばいく)となるやつ!!!!!!!!!!
誰かやりませんか??????喧嘩俳句の申し込みをお待ちしています。

もしご対戦いただける方は、対戦料として口座に12000円振り込んでください。
DMでご連絡をいただければ、口座番号をご連絡いたします。

喧嘩俳句詐欺(けんかばいくざぎ)


以上

最近おもしろかったこと
おばあさんのタイピングをミスって

オバアアン

となったときヒッと瞬間的に短いけど強度の強い刹那的な笑いが自分の中で駆け抜けていったこと


どす。

2018年6月12日火曜日

雨新(あめあらた)

「香港で朝食を、私が吉野家に入ってしまった深いワケ」という記事があって、
読んでみたら理由が"お店が少ないから"でした。は????????????
こういうタイトルの付け方、嫌いすぎる、雑、泥、銀、羽。バ~カ

単純にカードらす。(挨拶)

あっ思うんですけど、「ブログ」に類する熱 をみんなから感じたいですね。

みんな、日常的感情や心動を小出しに薄めてTwitterにすべて落としてしまうようになっていないか?

Twitterという媒体は過去を遡るツールとしては多少弱いというか、
その日の流れや文脈をすべて網羅して遡及することが難しいんですよね。

何か、出来事がある当日や、流れの中で、関連する全ての人をフォローしており、
その中での感情の機微や、発生するコミュニケーションをすべてサポートしてはじめて、
そこに息づく人の感情や、出来事をすべて掴むことができるわけで、輪の外 から与り知る世界が狭すぎる。

ブログで、誰かが特定事象について語らう夕べであれば、それは、Twitterのような
点と点を線に繋げる作業ではなく、初めから1本の線を見るだけになる。

全体的な俯瞰的視点をつなげて、各自の感情変遷を想像するよりも、ある1体の対象人物が在り、
その人の主観で進んでいく出来事を確認していく作業のどれだけ楽で楽しいことか。

優位性が強い、ブログは強い。悪いところが少ない。書くのが面倒で、あとは反響が得にくいことぐらいだろうか。
でも、他人の感情を透かして見ることのできるようなワクワク感というのはブログの他ないし、
そこに込められる熱量と弾丸の数はTwitterの比ではない。

面白いものや美味しいものを共有せしめよ、とパラドクス(@likeparadox)は言うた。

然りすぐる、とカードは思た。ワイもそうするべしの論者だし、そうしたいべしのサポーターだ。

パラドクスの謹言は絶対に聞くと決めている、過去のこれも然り

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パラドクス(@likeparadox) 2011年7月8日

馬鹿は今すぐTwitterをやめなよ  沈黙は美徳、ここは感情のゴミ箱じゃないんだよ
----------------

パラドクスは崇拝の対象であるため謹言を絶対に聞くと決めている。

ということで、面白いものと、おいしいものを共有せべし!せべしせべし!
頼むからみんなブログを書いたりこういう共有をしたりしてくれ。
散文的に大喜利に熱を投下して創作意欲を昇華して他へ新(あらた)を
発信することが減るのをやめてくれ

(面白いもの)
1. おぎやはぎ 6
→衝撃を受けるレベルで面白いコントがあって、Youtube のサイトの中の検索を可能とする窓で、
おぎやはぎ 6 で検索すると、おぎやはぎのネタが出てきます。
それが、めちゃくちゃに面白く、"これ"がしたい、"これ"が出来ないの辛いと思った。

2. 和田アキ子/キララ・キララ・バカ
→よく、わんちゃんのカリカリ(@kyoutoseijin), JP(@JP_mercury), スーパーアンダンテ(@spindle_sk) 等 の
氏たちとカラオケでボードゲームをするのですが、その際によく、和田アキ子の PV を見る(せっかくのカラオケなので)を行うのですが、
この、キララ・キララ・バカ が異常に面白いです。間 や 和田の配置 等 すべてが面白く、何度見てもゲラゲラ笑ってしまいます。
和田アキ子 with BOYS AND MEN 研究生 / 愛を頑張って も面白かったです。最後にでかい和田アキ子が出てきてふざけているため。

(美味しいもの)
1. 宇ち多゛/立石
→立石にあるもつ焼き屋で、危険なレベルで美味しくて凄すぎるのですが、
如何せんマナーや一見に向けた不親切さがやばく、勉強、功徳、修業を積まないといけない。
そして多人数で行くのが厳しいという特性はありますが、めちゃくちゃにうますぎて∞回行きたすぎる。
人は増えて欲しくないが、理解ある人が増えて欲しい

2. brochette Namioka/千石
→巣鴨と駒込らへんというんですかね。千石という意味不明な駅にある焼き鳥屋です。
かつての職場の関係でめっちゃ行ってたのですが、痛烈に美味しいので、萌え^~という感じです。
ランチの焼き鳥定食が、焼き鳥の量が少ないやつAランチが1100円、増量のBランチが1500円なのですが、
こんな高いならAランチしか食えないよ!!!!!と言いながら財布を投げつけて泣いていたのですが、
1度食べてみたら、もううまぐして(うますぎて) Bランチしか頼まない体になってしまった。
ここで6度破産している。

3. 大統領/上野
→上野のもつ焼き屋であり、もつ焼きが自分は好きすぐるためこういうことになるのだが、
ここも美味しく、更に宇ち多゛と比べて、多少は入りやすく、まあ、人とも行ける。
もつ焼き専門というわけではなく色んなメニューがあり、串焼きのものが概ね美味しくて最高。
混む。けどこれなら仕方ないとなるやつ。

中野周辺に越してきて、もつ焼き屋が多いので最近もつ焼きに満ち足りているのですが上述はかなり
ワロみ(旨くてワロてしまうみ)が高い。

もつ焼きが好きであればGOをするのがよいが、宇ち多゛は怖いので、ちゃんと調べていくと良き。
ただ人はあまり増えないでくれ 頼むよ(既に 混んでいる ため)


ジャパンボス





どうもカード、カードみす!(挨拶)


待って、記憶力が希薄だという話でもする?

嘘松フォーマットから開始しましたが、真面目な本題なんですわよ。

基本的に記憶力がないという件を以前書いたような気もするのですが、
再度説明をすると、「交流」の記憶がざらりとない場合がよくあります。
何で???と思うでしょ?当事者が「何で????」と思っているのだからそれに明確な回答は無くない?

ということで、こういう症状があるということで、みなさんご承知おき願って、助けてください。
みなさんとお会いすることが大喜利の場の概ねであることより、以下症状が特にあります。

・自分でしたボケは覚えていない
→たまに「こういう良いボケしてましたね」と言ってパンチやキックの褒め方 してもらえることがあり、
ありがたい限りなのですが、こちらは覚えていないことが多々となり申し訳ありません。
そういう情報を教えてもらえることが記憶を進撃する巨人となり、大変ありがたく、嬉しいので
それを諫める方針のことではないのですが、「共感」を求めて発言してもらっているのであれば、
それに呼応できることがなく、申し訳ありません。

・人がしたボケも覚えていない
→自他ともに無理であり、話題を供せることがないのが大変申し訳ないのですが、
そういうことが多々あり、基本的に何も記憶していない、コミュニケーション能力が
著しく高い、「高次元Pepperくん」だと思って会話してもらえると大変助かります

・人との交流を覚えていない
→俺は結局なんなんだ????????覚えていない時期が断片的にあったり、
大幅にあったりして終わりなんですが、よく、人の顔を覚えていなかったり、
会話を覚えていなかったりします。本当に申し訳ない。
大丈夫!そんなんよくあることだよ!と言っていただけるのですが、大幅にあるため死んでいる。

これはどうするんだ????????私はどうなるんだ????????????
思うのですが、「文字情報」から吸収した情報を記憶していることが概ねな気がする。
ブログなどを読んでいる限り、何も苦なく摂取できるんだが…。

人の会話や視覚情報を摂取することが苦手であり、うーーーーーーーーーーー
情報情報情報情報情報情報情報情報 とボコ殴りにされ「ぎええええええーーー」と
思っていたら「朝!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」と耐えていて気づいたら朝になっている感覚がある。

というんですかね。

1日の流れとして…朝起きる。変わらぬベッドや部屋の光景、外に出る!駅に向かう!
うーーーーーーーーーーー情報!人や人!新しい仕事の出来事!ニュース!関係の変遷!
移り変わる色や視野や光景!!!!!!!!!!!!!!!!!!
情報情報 情報々 情報々 情々報々 情々報々~
という感じの洪水というか氾濫がありませんか?
そうなると爆発問題なので、何も頭に入れないようにする、感性の死、無機的、生活機能があるだけの人間。

無 になれば情報は通過するだけなので、なんとでもやっていけるのですが、
日々、情報が過剰であり、傍受するだけのキャパシティがないのは確かです。

風来のシレンみたいな変更のない、パターン化された中でのループ的閉世界を
生きていたいという欲望があり、変遷する情報や世界に許容できる脳がない。

そういうことから、日々の記憶の多くが無い、ことが多い、ということなんです。多分。

・解決方法
記憶を可能 にすることは多分無理です。脳が無いです。外付けの脳を買ってくれ
つまり、記憶が無いことをみんなに知ってもらって許容してもらうしかない。
こういうことがあり、密にコミュニケーションを取っている人以外に対して
自分から「誘う」ということが非常にできないです。
遊びに誘ってくれた人に応じたら、その人に「記憶がない」場合、怖くない?
密にコミュニケーションをとっている人の場合、「覚えていられる範囲」の出来事って減るでしょ。
あと、覚えられる範囲も、それに応じて増えるでしょ。だから「覚えてなくても大丈夫!」ってぼんやり思えるのですが、交流が、些か少しである場合の人を誘う場合、「些か少しの記憶」を保持していないと誘えないでしょ。

みんなって記憶がない側面ってあったりする?あってもそこまで重篤ではないでしょ?

頼む!!!!!!!!!!!!!みんな僕をたくさん誘ってくれ!!!!!!!!!
めっちゃ助かるので

そして記憶を共有してくれ、みんなの記憶が自分の記録ということであるため

あーーーズビバゼン…

以上、靴屋の閉店時間 19:00 がち(そうか?)

2018年6月8日金曜日

ワガリマウ

カードからバードに改名しようと思うんですが(勝手にしろよ)

カードぎす。(せんのかい!!!!!)

知らない面白そうな人からフォローされたので「ほ~ん」と思っていたのですが
その人がど深夜にツイキャスをやっていて、「どういう人なんじゃろ」と思って見に行ったら、
自分の知り合いがコメントをしていて、「あ、知り合いの知り合いなんじゃいか」と関係性に得心し、
「ほ~ん」と思っていたのですが、急遽、「見ているやつは名乗り出ろ!!!!!!!!!!!!!!!!」みたいなことになり、
びっくりフラッシュかと思い閉じてしまった。人は、人は怖い

こういうカードのブログを作成して、さこさこと記事を書き、怖くて「書きました!」と発表することがあまりできなくて、
しばらく色々記事を適当に放言していたのですが、全く以てリアクションはどこにもなく、
何もない方向に銃弾を打っている、あるいは、実弾が出る保証がない銃を起動し続けている、
弾は出ているのかもしれないし、出ていないのかもしれない。
あるいは更にその銃も実は実体もなく、銃すら握れていないかもしれないという、ただひたすら、無為な空VSカード fight! をやっていたわけなのですが、
本日書きました!!!!!!!!という報を久々にしたら、しゅごしゅぎ(@syogosyugi) がいいね!のボタンを押下してくれたので、
これからしばらくやっていける。しゅごしゅぎの1ふぁぼを水で薄めて 0.2 ふぁぼづつ引き延ばして食んで、5記事分くらいは頑張れる。

そのあとふかし(@sitakefukafuka) さんがいいね!のボタンと #爆散希望のボタンを押してくれたので、
こんなにありがたい話はない。ほぼはじめて(1回はボードゲームの記事という何も無いに等しい記事が4ボードゲームいいね!だった)なため、
これをこれをこれを糧として生きていく。

最近とても好きな崎山蒼志くん(@soushiclub) の話なのですが、はい、すみません、しゅごしゅぎ(@syugosyugi) と同様の書き方で人を書いてしまうと
知り合い的メソッドに見えてしまいますね。すみません、はい。歌を歌う高1 の人の人なのですけれども、AbemaTV という最近隆盛しているWeb番組サービスの
「日村がゆく」というバナナナナマン 日日日日村さんが司会の色んな特集を組む番組がありまして、その特集で「第3回 高校生フォークソングGP」という企画に
出たのが、崎山蒼志くんなんですね。ああああああああああああああ良くとても良いとだけ思いましたはい。

良いなと思ったのがあり、書く、これから書くのですが、得てして音楽家や表現者って尖りがちじゃないですか。
既成をすべて破壊し創造していくことが常であるような特性上、今まであったものを否定したり、斜めから見たり、自分が一番!と頭つんのめりがちというか。

んで、崎山くんはめちゃくちゃな創造的な人でそれに裏打ちされた技術や表現力もあり、新しいことをやっているのにも関わらず、そんな部分が全く見えないんですよ!!!!!!!!
むしろ、今まであった音楽や既存の出来事や、世の中を「素直に」享受し、そして受け止め、吸収した上で、ひとりの表現者をやっている。
崎山君が、高校生フォークソングGPの登場時に、審査員のスカートの澤部さんやサイトウジュンさんを見たときに、すごいビックリしていて、何でだと思ったんですが、
後々、ツイッターで書いた崎山君の書き込み曰く、「『日村がゆく』放送みてくださった方々ありがとうございました! 優勝することができました、嬉しいです そして尊敬する
大好きなスカートの澤部さん、サイトウジュンさん、そしてあの日村さんに評価していただけたことももの凄く嬉しかったです。」
めちゃくちゃ良くないですか????今まで聞いてきた音楽を大好きであり続け、謙虚で、音楽と寄り添っているだけという。
表現者かつ創造者なのに、「破壊」という有り体な思考に行かず、楽しいから新しいものをやり続けているだけ、ということが伝わってきて、
今まであるものを大切にする姿勢が、じーんと好き…となってしまいます。

あんな新しく刺激的な曲とうたを作ってくれる子が、こんな素直で、かつ文学的で温かみがあるの、とても安寧と好感がすごくありませんか?
Twitterより
「『恋は雨上がりにように』観ました。すごごい良かったです。余韻に浸りながら畦道を通って帰っています。」

ありふれたような幸せを享受して、そして有りもののエンタテイメントを穿った目で見ることなく周りを攻撃的にさせることもなく、
「「「「「「「「「「「大物」」」」」」」」」」」の在り方をやっている。

絶対に一度見に行きたい 有名になるのが間違いなく、その前に世俗的な評判よりも過度に評価している、という座に収まりたい

ワキャ~

2018年6月5日火曜日

すびそ

「甘いガス」というアトラクションがあったら、流行りそうじゃないですか?
かなりの密室に入るのですが、しばらくかなりの間、照明が付いたり消えたり、
色が明滅したり、かなり無音が訪れたのち、ゆっくりと、じんわりと、
「甘いガス」が出てくるというアトラクションです。
色んな感情が錯綜して、わけわからなくなって、「ホエ…」と出てくるのではないでしょうか。

カーーーーードじゃす。

破滅型のすごい登山家が山に伏しましたね。
よく、死者が出ると、「崇高なる念をもって」「厳重な気を遣って」
送り出してあげなければならない、ような空気感があることを感じています。
ただ、こういった、山に伏した人に対する空気感が、なんだか、"人" の "末" の
"ひとつの解" では?というような空気感であるのが、好きなんですよね。

往々にして、「死のリスク」と遠いところにおり、すべての活動を行っている人、
「歌」や「スポーツ」や「芸事」や「一般業務」等々等々etcetc の人人々々が
死んでしまうと、「死」というものは「忌避していた」ものであり、
望まぬ「終わり」という感が強くなり、みんなが「><」となってしまう。

登山家や、ジャーナリストにおける「死」はある意味、「本懐」と取れなくはない。
人によっては望まぬ「終わり」ではありますが、しかしながら、「死」をお隣さんとして
認めて活動を日々行っていた者としては、ある意味、傍受すべきことだと思うのです。
当然、望まぬことではありますが。ただ、多く、傍に、「死」を抱き枕として寝ていたことで、
それに対する、受け取り方は、「準備」されていたのではないでしょうか、ということ。

すきな漫画が2つあるのですけど、「神々の山嶺」と、「プラネテス」というやつです。
前者なんてまさに、今回のようなことに似たことを考えさせられる漫画で、
両社に特に共通する項としては、「孤独の在り方」を通して、「死生観」に特に
触れられる漫画です。

神々の山嶺は、何故だか愚直にエベレスト山頂を目指す人たちの物語が描かれています。
死や危険を顧みず、「本来であれば必要ない」ことをする。
本来であれば必要ないんですよ。山を登ることも。何かを追い求めることも。
でも、立ち返ってみると、"必要ない、という行動"は、本来、存在しないです。

必要ない、という無粋な言葉でくくってしまうのであれば、食事や呼吸などが
「生命を維持するため」に必要であって、それ以外はなにも必要なくなってしまう。
また、言ってしまえば、その「生命を維持するため」の活動が「必要」という決まりもない。
何をもってして、必要ない、と決めるのか、は「その人次第」で、
また、「その人も明確な答えを持っていない」わけです。
また、「明確な答え」は無いし、何をもってして、「答え」とするかという定義もない。
いわゆる、決めたもん勝ちの状態だと思っていて、「自分にはこの活動が必要!!!!!!!!」と
宣言し、遂行したら、生命が完成するのだと思うのですけど。どうですかね。

僕が昔したツイートを他人に「これすごい好きでした」と言われたことがあるのですが、
「死産は人生のTAS」というむちゃくちゃ不謹慎なツイートをしたことがあります。

ここで不謹慎なのは、周りを取り巻く人のことを一切考慮せず、「人の死生観のひとつ」としての
例示を一方的にしてしまっているのが不謹慎なのですが、
ただ、その点を不謹慎レンズを外して見て、「人の在り方」「人の終わり方」の正解をどう設定するか、
という考慮をすると、死産は、"亡くなった赤ちゃん本人がそう思っていれば" クリア なのです。

自分はいつ、クリアをするんだろうか。

生きる理由を探すというより、死なない理由を探して生きていく、後進的年輪を重ねる日々ですが、
ビルの窓がでかいと笑ってしまう。
窓がでかいと笑っている人間はたぶんそんな死ぬ理由がないと思うのでだいぶ大丈夫だ。

自分の前世はうにを殻ごと飲んで涙目になっている鳥のGIFだと思います。どう?

(話、戻される)

プラネテスという漫画は、とにかく宇宙で、生き方について考えることを強いられるというか、
「起こされる」漫画です。

日々、毎日、常時、「死に方」や「在り方」を考えていたら、その人は DangerMan です。
ふつうを少しやめてしまった人。ただ、それについて全く考えずに、「日常をやる」だけで
手一杯な人は、"寝ている"、"寝る"ことによって、泡沫の人生の安寧をほの覚えただけではなかろうか。
たとえば、でかい借金取りがでかい音ででかいドアをでかいドンドンドン!!!!!!!で
「でかい〇〇さん!!!!!!!!そこにいるのはわかってますよ!!!!!!!でかいいるんでしょ!!!!!」
と叫びたてたとして、布団をかぶって、早く行ってくれ・・・・とガタガタ震えながら、
耳栓をして、気づいたら寝ている。そんなシチュエーションの中で、いま、その眠りにつき、
「でかい夢の中」にいる状態なんじゃないでしょうか。
人生において、「考えること」を放棄するととても楽になるのですが、それが正解!とピンポンの音が鳴るかと言われたら難しい。
一度、起きて、死生観を考えてみないと、突如訪れる終わりに >< となってしまうだけなのはもったいない気もします。

「宇宙」に行ったら、多分、みんな「起きる」んじゃないでしょうか。
きっと、宇宙に行っても、のほほんと、「あ~~~~~~~~日常!宇宙最高!!!!!!!!」と
なっていたら"亜人"では?????????
たぶん、概ねが「起き」、「人の在り方」などを、自問自答の俎上に上げるのではないでしょうか。

自分はある程度の DangerMan 寄りなので、よく「終わり方」を考えているというか
"それ"をグルグル意識してしまい、ほぼ常時頭をとらえて離してくれることが少ないのですが、
逆に、「宇宙」に行って、新しい回答 を得たい ということは思っています。

宇宙 に行くクラウドファンディングでもして、40億円くらい集まらないだろうかしら。
それかでかいワシの爪で「クリア」したいね。

バーチャル敵tuber

こんにつは。
「言葉が刺さりやすい」人や「怒りやすい」人は読まないでください。議論ではなく共感が欲しいだけで責任を取りません

面白くない人というか迷惑な人って「わざわざ面白くないほうに解釈するのがうまい」気がするんですけど、
どうでしょうか。

ふと思ったんです。あ、カードべす。(自己紹介です)

ふと、とても面白いツイートを行おう、実施しよう、施工しよう、開催しよう、と思ったのですが、

「俺たまにうんこしちゃうんだよな」

というツイートをしようとしたんですよ。

たまになわけ、ないじゃないですか。人類の基本パックとしてうんこはセットになっているわけで。

・うんこという事象をレアなことだと捉えている
・しちゃう、という言い回しから、うんこをすることを「悪」だと捉えている
・周りはあたかもしないものとして誤認している
・とぼけた感じで悪びれずにうんこに関する言及をしている

という感じの思いなのですが。

ここから、"勝手に" "存在しない筈の" 仮想敵と戦ってしまうのですが、本当に偏見ですが、
面白くない人って、これを曲解して「面白くないほうに着地させる力すごくない??????」と思うんです。
いや、今回は例も悪いというか、伝わりにくいから、別に解釈がずれていてもしょうがないし、大丈夫なんですよ!!
でも、このツイートを押し留まった理由は、このツイートの書き方もすごいセンシティブというか、解釈をとてもゆだねられており、
どうとでも解釈できるような内容なので、「人を映す鏡」になっていると思ったからです。
ここで、こういう仮想敵がいるかもしれないし、という戦いをしたのですが、

「俺たまにうんこ(漏ら)しちゃうんだよな」
という解釈も、できなくはない文面じゃないですか。

そうなると、この文言のオモシロ戦闘力がほぼ0と化して、無味か少し味がついた程度の身体的ハンディキャップや短所をおもしろめいて報告してる"感"文章と捉えられたら

あー死休み だなと思ったんです。

仮想敵と戦いますけど、そういう面白くない人って、勝手にそういう解釈に着地させるきらいがありませんか!!!!!!!??????
オモシロ畑以外の人だったら全然大丈夫なんですよ。割と解釈のしようというか、すごい微細なオモシロどころを齧ってもらうツイートになって、伝わりづらいは伝わりづらいやつだよなーーーーーーとは
思っていたので、捉え方がうまい人にだけ伝わってくれればいいな、という思いなので。

勝手にそう思ってるだけなので、偏見でしかないし、勝手に何と戦っているのか、今はわからないのですが、
「面白い方向に解釈すれば」まっとうに面白いことを、曲解して、自身の経験値上コメントできる出来事と曲解して、取り扱ってくるような傾向がある人が
ぽつぽつといるような気がして、とても怖い!!!!!!!!!!!!
今回は微妙にわかりづらい例事象だったので、こっちに非もある案件なので、そこまで伝わりにくいかもですけど、もっとわかりやすいようなものでも「ピントズレ解釈」が散見されている気がして、"死" なり

永遠にこういう仮想敵と戦いながら生きているので、永遠にボロボロなわけです。
"解釈"を"考慮" してくれ、そして"考慮"しない人は"脳死リプライ"で暴力を振るうのをやめてくれよ

頼むよ

あとペプシのキューカンバー味、ファンタもぉ~もぉ~ホワイト味、チロルチョコ北海道ゴーダチーズ味
復活してくれよ

頼むよ

おじょるもる

(えなりのおじゃる丸?) タイトル疑念を通過したところでカード(※記事のことです)をどうぞ 本日のカードは お、おばあさ~~~~~~~~~~~~~~~ん!!!!!!!!!!!!!!!!!!! あっすみません、シンプルに「おばあさんが轢かれたとき」を行ってしまいました 人生で「&q...