町田康の「夫婦茶碗」の前半を読んだ。読んだので、感想を書くという当然をやる。
当然をやらず、脳に情報の新幹線が通過するのをひたすらに無為にやり続けていた。
本当に無為で、そんなことをするなら情報を摂取せずにコンテンツ浪費を行うのをやめればよかった。
無為にコンテンツを消費していくことへの 惜しさ を最近身に染みていて、面白かったものの初回の感動は二度と戻ってこない。
こんな訓戒は往々にして皆が通り過ぎた、3つ目くらいの駅だったと思うのだが、自分は特に最近これを思うようになった。
というのも、面白いコンテンツが散在しすぎて、脳内メモリが不足しています!というエラーが出力され、気づいたら 日常の雑情報がそれらの面白いコンテンツ記憶領域に侵食し、勝手にbaidu のような毒に近い日常雑だけが脳にインストールされ、面白記憶がゼロになってしまい、零 ZERO になってしまい、零 紅い蝶 になってしまうからだ。
自分の脳を過信しすぎていた。10代後半の自分は本当に天才ですべての記憶をすぐに記憶し写植し、なんたって生活や食事や移動までできたのだ。電子メモ ポメラ などには到底出来えないことのすべてをやってしまっていた。
ところが、20代を過ぎたあたりから、どうだろう。仕事の記憶が「消せない領域」という、桃鉄で言う「農業カテゴリの物件」みたいに頭に在り続けるではないか。
こんなことで自身の脳領域はすぐに限界を迎え、いつしか、数日前のことや、人々のことが思い出せなくなってしまったのです。まる。しかく。さんかく。ろっかく。ねじ。
なのでいまこうつらつらと書いている際に思いましたが、みなさんにお願いしたいのは「私の記憶の代替」になってくださいということです。
これは本当なので本当だと前置きして本当のことを言うのですが、記憶がやけに希薄なところがあります。異様なまでに記憶力がなく、皆さまと遊んだりなんやりしたことのうち、自分は記憶がほぼないことがほとんどですので、「記憶の代替」になってくれて こんなことありましたよね と言ってくれると ああ、そんなこともありましたね!!!!!!!!!!!!!!!!!と叫んで爆ぜれるのでとても良い。
お手軽な爆弾や風船の類だと思ってください。深刻なことでなく単純に「日常のことを覚えていないことが多い」という特徴の話なり。これからも皆さんよろしくお願いします。
違う!!!!!!!!!!!夫婦何某の感想でした。
話の端は何のことはない夫婦、といっても少し特殊な、ろくでなしの食い詰め男がぼんやりと社会に文句を言いながら暮らしていく、という堕落的で退廃的でどこか反社会的なシンパシーを感じるようなコンセプトなものです。
前半は特に駆け抜けるようで、ひたすら文章を書くにあたって、今までに「無い」ことをやっていっている。今までに「無い」というのは、多分マナー的に、"国語"のマナー的に、学校では大きな赤いバツがつくようなことを「表現」として軽やかにやっている。
人様にお見せする文章で今までに「無い」ことをやっちゃダメだろということを排除して爽快に進んでいく。森や山を草原と同じ速さで直進している。こんな楽しいことはない。
あまり小説を読んだことがないので、「小説」というジャンル内においては、こうした自己表現のアピールが許容されており、みながみな競って自己的特殊表現を見出して、"新(あらた)"を常にやる、というカテゴリかと思い、そう考えるとこの作品のみでの突出性を見出すのが難しいなり考えていたのですが、違いました。
それは小説を知らな過ぎただけで、こんな特殊な文体を好き勝手コミカルにそしてパワフルな文でやる人はおらへん。おりはらへん。いはらへん。おりひん。おりはるこん。おりはらへん。おりはるこん。
というわけで特にその序盤の「特異的表現」を咀嚼してむしゃりと食べたのですがとても良なことがわかり報告にあがった次第です。
主人公である「男」は、職もない。女房より金のあてを常々問い詰められている立場だ。
普段、家事のそれぞれは男も行う。ふと思い立つ。これが生業にならんもんか、と。
天下の往来できんぎょ売りや豆腐屋の声ならぬ、茶碗洗いが声をあげる。「ぇ ちゃわうぉっしゃ~」
これでは狂人が奇声を上げているのみだ。
ふと縁があり、男はペンキ塗装の日払いの仕事にありつく。ときに快調に塗りの極意を得心したように思考が駆け巡ったかと思えば、
すぐにその意欲もしぼみ消え、もっと創造的な仕事はないものかと嘯き、すべてを放棄してみたり。
あくる日はペンキで稼いだ銭で冷蔵庫を妻に買い与え、ひたすら卵の並びに執心し頭がおかしくなったようになってしまったり。
ひたすら爽快に、戦車のように「駄目」をやっていく。
その快進撃だけでも爽快なのに、その書く文はポップでコミカルで新たで、ユーキャン新語・流行語大賞をやっている。
これは涼やかだし、パワフルであり、楽しく読めた。急に童話作家になったあたりで理解が追い付かなくなって、ぐるナイのゴチの STOP! の手を置いて読書をやめた。
ただ、自分は思ったが、これがすべてやりつくされたかと言われたらどうだと思うところでもあるし、似たような小細工ならこちらでもできるぞという思いもある。
文を書き、新たをやる。これはとても楽しそうで、こういうことがやりたいという思いもあるが、その先進性や面白み という理解力があまり自身に備わっていない。それは今までに読んできたものがあまりに少なすぎるから、その界隈で食傷された文脈や題材という範囲までの理解が追い付いていないからだ。
ひたすら先般を無視して、勝手に思う 新た に突き進むもよいが、それをやって、出来た ブツ をとっ捕まえられて「これは〇〇に似ていますね」と言われたのであれば ちびまる子ちゃんのアニメのどよ~んのした SE+効果音 アア~ア(ぼんよよよ~ん)が鳴ってしまい 終 となってしまい、前につんのめってずっこけて泥を食ってしまう。
そういうやつ。
まあ、ということで何かを見たり読んだりしたら 評ずる ことと それを自身の記憶の代替とする ということの優位性に気づいたので、これから、それはひたすらやろうとは思う。
この前、カラオケでボードゲームをしていたら、隣の部屋で1人でどぶろっくを歌う女の人がいました。
"豪傑" という名詞を久々に使えるな、と思って嬉しくなりました。おわり。