2017年11月29日水曜日

なんでタモリのレシピは我々を魅了してやまないのか



今日も今日とて、仕事中、ふと空いた時間やどうしても心がクウーっと息苦しくなってしまい、
フイーと地上に出て新鮮な酸素を吸い入れるために、タモリについて調べていた。


みんな、知っていますよね。タモリって。
「タモリ」と言われて、さも 「ハイパーコンバージドインフラストラクチャ」と言われたような顔をする人はおるまいて。
そう、みなさん周知のとおりのかつての昼の顔、タモリさんである。

僕はタモリさんが好きだ。理由を明文化できないが、その佇まいや喋り方もそうだが、
その取り成す雰囲気や、きわめて趣味人なところに特にぐぐぐっときてしまう。
「趣味」とはこのこと、と思うくらい、テレビで語る知識は豊富で経験に裏打ちされている。
それを安売りすることなく、ゲストがふと尋ねたことからぽろりぽろりと零れ落ちてくる
宝石のような知識のひと滴が、僕の心を掴んでやまない。

ご存知な方も多いだろうと思うが、タモリさんは料理が達者だ。
よくテレビなどで料理を語ると、そのたびに各人が模倣し、ビッグワードとなっている。

インターネットに書いてあったことなので確かさは保証できないが、タモリさんはこと料理に於いて
「グッチ祐三にはかなわない」と思っている、らしい。
確かに、本人もそう言うのであればそうなのかもしれない。こと、料理の全体的な腕だとかにおいては。
ただ、いつも界隈を賑わせ、僕らの心を芯からゆすぶってくれるのは、タモリさんの料理だ。
なんでタモリの料理が、こんなにも魅力的で、模倣したい気分に駆られるのだろうか。

多分、多分ではあるが、タモリさんのレシピには、おいしい料理のレシピ、ということばでは
片づけられない情報、多層的なレイヤでパッケージングが行われているから、魅力が深いのではなかろうか。
「ずぼら」だったりだとか「一人暮らし」だったりだとか「新しい発見」だったりだとか、
常になにかプラスアルファの情報が僕らの神経を共振させているのではなかろうか。

・タモリの焼きハマグリ
このレシピ、言ってしまえば、ハマグリを焼くだけである。
単なる「焼き方」がライフハックとして先人たちを置き去りにして、価値を生み出すって、
すごくないですか?これも、トライ&エラーの賜物、もしくは環境によるものかもしれませんが、
いかに飽くなき探求心をもって食に取り組んでいるのだろうな、とわかります。

・タモリのサバサンド
流行ったよな、これ。普段聞きなれている単語+単語でそこまで聞きなれない料理、というのが
非日常を演出していてよかったですよね。ハレ・ケ の色気の出し方が上手いんだと思います。
ちょっと、試してみようかな、という気持ちに溢れますよね。

上記に言えるように、試してみたい、というハードルの低さからなる、構成要素たちが、
僕たちを惹きつけるのではなかろうか、と思いました。

私はタモリのカレーを作るので、これで失礼します。


2017年11月13日月曜日

山に縋るみたいなことの日です

明治の冬の定番チョコである、「ポルテ」が販売終了との報が届いた。

この前には、松村邦洋が痩せて、この世界に永遠なんて無いんだ、と諦観するしかなかったところで、

こんなニュースが届いてしまうとは。

この世界は、単に生きているだけで僕らから数多のものを奪い去っていく。

若さ、ステータス、お金、情報、環境、全容。

これだけ消える悲しみが辛いのなら、何も知らないほうがよいのかもしれない。

ソクラテスさんは無知の知を説いたが、無知の一番の強いところは、知らないものが

消え去ったところで、何もダメージがないことだろう。

名前をつけて可愛がっていた蚊がひと夏の任を終え、夭折さる場合、その喪失感は

ひとしおだろうが、刹那の逢瀬しかない、ビジター蚊を招かれざる訪問客として

一打に伏すということであれば、何らダメージはなかろかろう。

「ポルテ」は、ココアパウダーがくりのようなフォルムの体にまぶされた

チョコ菓子で、中には優しいクリームがふしゅっと入っていて、ゆっくりと

舌の上で転がすと、テレテレと甘みが溶け出してくる。

いまさらですが、「ポルテ」は、チョコ菓子ではありません。

「母性」であり、「地球」であり、「浮遊」であり、「温熱」です。

この4大要素が脳を支配して、みなさんの味覚に対話を仕掛けてきているのです。

代替できるものがありましょうか?ないでしょう。

ポルテ状に胃がぐっと空いて、ちょうどポルテ分だけ空洞ができている。

僕は空洞。ポルテでないと満たせない。助けて助けてください。

違法なポルテを密造し、薄暗いマンションの一室を販路にしている、

知る人ぞ知る、裏ポルテ屋の情報を教えてください。一説にはYRP野比にあると聞きました。

よろしくお願いします。

2017年11月4日土曜日

街裏ぴんく 第2回単独公演「漫談」みた

街裏ぴんくの第2回単独公演「漫談」を見に行った。
とにかく良すぎて良すぎたな。
まず触りではアンケートをみんな終わってから書くということについて常識を問うている。
街ぴ(呼称が安定しない)はとにかく根底を疑ってかかってくれる。
表現として、多様なものに触れていくと、どうしても型にはまったことや、決まりごとや定型句は生まれてしまう。そんな枠組みを全て疑ってかかって、独自の審美眼で必要なものだけを残したような構成。
街ぴは巧みな話術で、ものの少しの時間で異世界へ誘ってくれる。恐ろしいのは、異世界に暮らす人が異世界に息づいており、しっかりと異世界の中の世界のルールに基づいて生活をしていることだ。
その中で、主人公の視点の人間が異世界と現実の橋渡しとして、いまの現実の温度をほんのり保ちつつ異世界に順応していく。
これはもはや大作映画のやり方だ。
途中、女二人にネタをせがまれネタをやる、というシニカルなネタを見せてくれたが、こうしてフォーマットからも楽しませようとするエンターテイメント精神、これはやはりライブのこだわるのも納得で、とにかくその場の人を楽しませようという考えも根幹にある証左になると思った。
しかし、そのフォーマットで楽しませてくれて、すごいな…と思っていたが、そんなのは単なる序章に過ぎなかった。次の普段のマイク1本でのネタに戻ってからそんなフォーマットで揺さぶりをかけて面白いと思っていたことが恥ずかしいと思えるほど、圧倒的なワードセンス、想像力を持っていままでにない笑いを提供してくれる。その足取りの力強さったらなく、語感、空気、呼吸で支配していく。その場の全員の心臓を一握りにして掌握しているかのような。皆、街ぴの一挙一動に目が行き、街ぴの笑って欲しいボケの着地をしっかりと受け止めることができる。
滑り止めの飛行場で理解者を見つけたと思うや、「飲もう!!!!!!!!」と服薬を覚悟するシーンなど、もはやこれは作り物じゃないんじゃないか?というような、世界に生きている人間のリアルな狂気と言うか、ある種の逸れた常識が納得性を持って殴りかかってくる。
異世界に行ったことを我々に証言できる、稀有な存在、それが街裏ぴんくなのかもしれない。
バウ という架空のアニメの話では、架空のアニメの架空の面白かった回を創造して纏めてしまう。こんな真似をされたら、神でしか太刀打ちが出来ない。テレビの限られたコンテンツの面白いと思った回を競うように報告し合うような真似をしている我々がどれほど矮小な存在かをわからされてしまった。架空のアニメのをの面白い回を報告し合う方が面白いに決まっている。
確かに、そんなことを細切れにインターネット上やひとネタの一節で切り取って行える人は多くいるかもしれないが、それを一つの話に纏め上げ、一本ストーリーの筋を通して、その構成力で纏め上げ
さらにはそれを発展させ新たな世界を作り出す、こんなことは街裏ぴんくでしか出来ないだろう。
街裏ぴんくを知れたこと、街裏ぴんくがこうして面白いライブをやってくれていることに全幅の感謝をすると共に、こうして街裏ぴんくが痛烈に血沸き肉踊るほどに面白いと思えるタイプでいれたことにひたすら幸福を感じる。

さて、そろそろ死んで見ようと思う。常識を疑って、笑いの萌芽が起こるかもしれないのは街裏ぴんくが証明してくれた。

※追記 バウは実在するアニメの話だそうなので、ずれた感想をお許しください。

おじょるもる

(えなりのおじゃる丸?) タイトル疑念を通過したところでカード(※記事のことです)をどうぞ 本日のカードは お、おばあさ~~~~~~~~~~~~~~~ん!!!!!!!!!!!!!!!!!!! あっすみません、シンプルに「おばあさんが轢かれたとき」を行ってしまいました 人生で「&q...