2018年6月30日土曜日

絶対に街裏ぴんくを見るべき理由

どうも、カードです~

本日は、ライブを見に行ったのでレポです!(笑)

違った違った、こういうのをやめなければならない
浅い部分で人間をバカにしたような猿真似を・・・

カードくす(挨拶)

街裏ぴんく 第5回単独講演会 「武蔵野公会堂」を見ました。

もう、先般の感想等で書いていることもあった気がしましたが、自分はもう暫くの間、
お笑いは「街裏ぴんくだけでいい」と思えるくらい満ち足りています。
本当にありがとうという感謝と多幸しかなく、ライブ中もひたすら、
足りないお笑い栄養が脳にチューブで直接注入されているような充足感があった。

思ったのですが、各ネタに対して議論や考察を挟む余地すらなく、
ひたすら信頼して身を委ねるのが、一番よいだろうという結論に達しました。

-街裏ぴんくを見るべき理由-

街裏ぴんくは、知る限り、最も深い部分での笑いを供してくれるプレイヤーだからである。

街裏ぴんくを見るにあたり、超えなければならないハードルはまずは前提として以下。
・お笑いが好きである
・最低限の教養がある
・笑いに対して、柔軟である

上記の項目を満たしたり、満たしたつもりになれば、街裏ぴんくという土に没入することができる。

街裏ぴんくの笑いの根とはなんなのだろうか。今までに見た笑いで形容することができない。
そもそも、街裏ぴんくが出してくれる笑いのメニューが既存のお笑いをすべて調味料にしている。
既存のお笑いの形を象ったと思うときは、概ねが作中の小ボケでしかないことが多い。

大ボケというか、笑いの肝となる部分は多くが、彩られたストーリーの中核に触れたときや、
話中の人物からの、著しい揺さぶりがあったときが多い。
恐らく、笑いの種類を多く知っているほど、街裏ぴんくの供する笑いの特殊性に心が揺さぶられて、
とりとめもない心酔感を味わえることだと思える。

街裏ぴんくが話す際の笑いを受容するときに我々が必要なことは、「我を持たない」ことである。
街裏ぴんくの世界で、「次何が起こるだろう」という純粋な期待を持つ分には構わないが、
「こういう展開になるか」という期待を抱き、その展開が来た際に爆発的に笑う、という笑いの種類は
街裏ぴんくにおいてはほぼほぼない。

自身の「好きなお笑いの型」を「勝手な期待」にすると、没入とは別個の世界に迷い込んでしまう。
一度、話から気がそれて、世界がずれてしまったら、いつしか何を話しているかわからなくなってしまうような、
そんな特殊性のあるお笑いをやっている。漫談であることがフルで活用されている。

思うのですが、街裏ぴんくに最も近いコンテンツは何か?と言われたら、「催眠術」だと思う。

催眠術を与える際の前提条件には下記が挙げられる。
-------------
催眠術をする際に必要な前提(条件)とは何かという話です。

・被験者と術者で信頼関係が築けること

・環境がある程度出来ていること

・術者の服装と態度

・十分な説明が成されること
-------------

1. 被験者と術者で信頼関係が築けること
これは、お笑いコンテンツにおいては演者が最大限努力する部分ではないだろうか。
絶対に笑わないぞ、クソがと思って意気込んで来ている人は絶対に笑えないであろうからである。
そう思っていない人であっても、誰もが「絶対この人は笑わせてくれて~」と信頼ハードルガバガバで来るわけでない。
少しでもそのハードルを取りほどこうというのが演者の努力である。
単独ライブが跳ねやすいのは、そういうハードルが下がっている人々が、笑いに渇望してやってくるからだ。
そういう意味では、いい土台が築けているはずだ。

2. 環境がある程度出来ていること
先般で説明した心象的環境もそうだが、個別に席が用意されて、安全が保障され、
あとは楽しむのみ、という環境が用意されている。
また、「誰が出るのだろう」といった思考が別路線に振れるような介入は少なく、
ひたすら街裏ぴんくが紡ぐストーリーに目を、耳を傾けていれば、安寧が約束されている環境がある。

3. 術者の服装と態度
お笑いライブのような微細なコンテンツ、かつ高度なお笑いを好むような人々の性質上、
態度や服装などの、細やかな差異だけでも、何かの伏線であるかと勘繰るようなリスクを孕んでいる。
そのため、毎回丸坊主の巨体がスーツで出てくる、という視点の固定化が織り成す、見方のブレなさの効果は大きい。

4. 十分な説明が成されること
ここが一番凄いと思うところなのですが、異世界への投影、大移動が起こるわけなのですが、その際でも全く「視点がブレない」という安定感、バランス感覚がすさまじい。
絶対にストーリーテラーとしての街裏ぴんくだけではなく、「主人公」として、街裏ぴんくの"主観"が細かく語られることにより、「感覚共有」を逐次行い、世界の喪失が起こらないように配慮されている。
絶対に人間であれば「ここで違和感を感じるポイント」で笑いに転換し、不愉快な出来事であれば、「怒りや恫喝や慟哭」など、説得力を持った感情で訴求を行ってくれる。
ことごとく、物語についていけるように、という気遣いや話術や、無理やり引き込む技術等を駆使して、最大限に、物語、「ボケ」「お笑い」の深いところ、深いところまで連れて行ってくれる。
ここまでの用意をして深い部分で「お笑い」をやるので、そこに起こる不条理がすべて「正」となり、我々はそれを客観視して「笑うだけ」でよいという土壌が出来る。
「ラ」のマネージャーなど、普通に用意した笑いであそこまで大きな波には絶対になりません。
そこまでの入念な準備と、世界への没入を用意することにより、はじめて共有できる笑いの種類である。

先述した、"世界の喪失"、という所謂裏切りというのを、必ず「大オチ」に設定してくれるのも小気味良い。
そうしたことにより、築き上げてきた世界がふとガラガラと崩れ落ち、催眠状態が解け、心地よい喪失と共に物語の余韻に浸れるようになっている。"秀ちゃんの夢"の話など、特にそうである。
そこまで築き上げていた"街裏ぴんく"という像が「でも、僕はそれを 良しとしているんですよ」という言葉を持って瓦解し、
今まで覗かせていた姿が、人間の数多い面の1面にしか過ぎない、と知らされたところで、オチ、物語の終焉、現実が待っている。

それらを織り成す構成要素において、「話術」や「気遣い」における準備だけではなく、その中での「ボケ」のセンス、いわゆるナンセンスやギャップ要素による「高密度」な笑いが用意されているという点は大きい。
いくら用意して連れて来ても、そこに高いレベルの笑いが無ければ意味が無い。
そこを満たしているのも街裏ぴんくの強みだと思う。

また、よく思うのが、「街裏ぴんくの漫談が、生で見ると面白いのに、CDや映像ではいまひとつだ・・・」という点。
やはり、これは先述したとおり、催眠の一種であり、「その場の空気や空間、熱や温度、声、音響」すべてを共有した状態で、「そこにいる人に語りかけている」というコンテンツであるためであると考える。

なので、枠外からそれを眺めても、先ほどの「高度な笑い」を前提準備のない剥き出しで賞味することとなってしまう。
没入感がひたすら減衰しているだけの状態である。

とにかく、街裏ぴんくは、見るべきだし、生で見るべきです。
こんなコンテンツが継続的にライブを、独演会をやってくれる。
そんな幸せを、柔軟に、素直に傍受させてもらいたい。

ありがとうございます。

カーードです。

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おじょるもる

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